花火

 昨日の雨は酷かった。山梨から高速道路を走って関西に戻ったが、ずっと土砂降りの凄まじい雨だった。これだけ走れば、どっかが降っていてもどっかは止んでいるものだが、こんな日は珍しい。関西に近付くと「阪神‐広島戦」のナイター中継がラジオから流れてきた。やってるの?信じられないこの雨の中。何度も中断して、結局試合終了は翌日になったようだ。
 ようやく暑さが落ち着いたというか、昨日あたりから肌寒ささえ感じる。しかし、この夏は地震とか台風とか酷いことが多すぎた。我が家も前回の台風で微小ながら屋根に被害があった。今月初めに函館で数年ぶりにバーのマスターと再会して、戻って来たらすぐに台風、次は北海道で地震と大規模停電。一歩先は何が起こるか分からない。
 3週間ほど前、前々回の台風が過ぎ去った後、大峯奥馳道を歩いた。まだ台風の影響が残っていたのか風が強かった。大峰寺の参道でも石碑が倒れ参拝道が倒れた木でふさがれていたが、山上ヶ岳から先の南の女人結界門に向かう道でかなりの大木が登山道を潰すように倒れていた。悲しいというより怖い。道を塞がないでくれ、と台風には言えない。噴火しないでくれと山には言えない。歩きたくても歩けないそんな日もあるだろう。

 自分ではどうしようもない不安があって、不安を消すために自然に身を任せようと意識すればするほど小さな不安は消え去らず増大していくものだ。人の意識は、中心が不安になるように最初から組み込まれているのかもしれない。不安に満ちた将来を予測してしまうのは、過去の経験を引き出し、意識という空間の中で時間を処理できる「私」がいるからだろう。例えそれが「今までに経験したことがない」事例であってもリスクを回避するために不安を類推しようとする意識の切なさ。確かに思えば本当に暑い夏だったし、本当に災害の多い夏だった。もう、こんな暑くて酷い夏はこりごりだ。そう感じるのは「私」だけではないだろう。「私」を作って来た多くの「私」の悲鳴が聞こえるようだ。
 夏が終わって「私」の意識は流れるように連想する。「夏の終わりに見たいもの」の一つに花火があるだろう。もう、花火のシーズンも終わりだ、「私」は「私」の馬鹿げた連想を否定しようとした。ところが、その意識の否定を一通のリマインドのメールが止めた。「以前タクシーに乗っていただいた、つくばタクシードライバーです。土浦の花火大会が10月最初の土曜日に開催される報告です」メールは素朴でいたってシンプルな内容だった。その言葉は、なんの飾りもない。いや、飾りなんか何も要らない。
 「山高きが故に貴からず、というでしょ、山低きが故に卑しからず、ですよ」という素敵な言葉がよみがえってきた。その言葉をくれたタクシーの運転手からだった。土浦の花火、リマインドするって言っていたけど本当にちゃんとリマインドしてくれた。そして再びあの日の記憶が無意識の奥底から蘇ってきた。世の中捨てたもんじゃない。こういう人もいるんだ。苦しみ不安を抱えながら生きている「私」は、消えない不安の中で暖かい熱を伴った小さな光を見たような気がして少しだけ幸せな気分になる。
 山高きが故に貴からず、山低きが故に卑しからず、そして花火。
 山、タクシー、夏の終わり、秋、花火、職人、火、光、音、豪快、華麗。「自分」の無意識から「私」の意識の中に駆け上がってくる言葉のイメージの連環は終わらない。
 花火職人が腕を競う美しい火と光と音の祭典。気になる人は行って実際に見てみるのもありだろう。

 土浦の花火の情報

 美しいものは簡単には見ることができないところにある。