ヘラクレイトスのロゴス

 「わたしにではなくロゴスに聞け」とヘラクレイトスは言った。
 紀元前500年頃に実在したソクラテス以前の哲学者の断片の一部である。ソクラテス以前の哲学者の資料は非常に少なく表現形式も難解であるとされる。ディールスとクランツが編纂した「ソクラテス以前の哲学者断片集」(岩波新書で邦訳版があるが私は持っていない)という書籍があって、断片番号が付与されており、ソクラテス以前の哲学者が残した言葉を断片と呼ぶことになっているらしいので、それに従うことにする。
 なぜ、こんなに古い哲学者(ソクラテス以前は哲学に含めないという人もいるらしいが、哲学であろうがなかろうがそんなことはどうでもよくて、自分にとって有用な科学であればよいし、これらの断片について有用な科学だと考えている)の言葉を持ち出したのかと訝しがる人もいるかもしれないが、私の中ではBPTモデル、般若、Societas、そして世界に浮いているあらゆる価値、今着目している断片、とすべてが一本の糸でつながっているからだ。
 ヘラクレイトスのロゴスの話の前に、ヘラクレイトス以前の哲学者を簡単に整理しておこう。廣川洋一の「ソクラテス以前の哲学者」では、哲学者の始祖とされるミレトス派のタレス以前の詩人、ヘシオドス、アルクマン、ペレキュデスの3人を先駆者として挙げている。ヘシオドス(前700年頃)はホメロスと並ぶギリシア最古の叙事詩人である。「神統記」においてヘシオドスの語る宇宙世界は、時間軸的にも空間軸的にも非常に整理された統一性のある秩序世界である。原初カオスから自然万有そのものの自発的な運動作用として語られている。その運動にも秩序の働きがみられるが、限度を超え逸脱する可能性も了解されている。成り行きだけでは真の秩序は保てないという、ゼウスの秩序世界を語る。「仕事と日々」の中で人間たちが限度を超えるとき正しい平行原理としてのゼウスは確実にそして正当に作用する、とある。ここに、正義の概念、すなわち、自然の秩序のあり方は、人間の秩序正しい社会生活、個人生活とも無縁ではない、という基本思想がみられる。アルクマン(前630年頃)は「乙女歌」で有名な抒情詩人である。彼の思想が伺えるのは「オクシュリンコス出土パピルス文書」(Pap. Oxyrhynchus no.2390, 1957)の中の断片である。実はこの中の話は神話っぽいけど個人的には想像力を掻き立てられる話になっていて紹介したいけどあまりにも長くなりそうなので、また別の機会に。話を飛ばして超要約してしまうと、彼も宇宙生成説を語っていて、その内容は万有に限界を与え、限定する同一の作用をもつ一組の原理が働く、「限定」原理への着想があるということである。ペレキュデスは「すべてを神話的に語りはしなかったという点で神話を語るという人の中でも神話と自然学の両面を混有していた」とアリストテレスに評されている。彼の宇宙生成説の特徴の一つに、ザス(ゼウス)、クロノス(時)、クトニエ(大地)の生成の原初段階を「無からの創造」ではなく「つねに存在した」と言っていることがある。次々と続く生成段階は面白いのだが、こちらもまたの機会ということで、超要約して語ると、生成段階では、宇宙を生成する原因者のゼウスがエロスに変換するという神話的な語り口がありつつも、火、空気、水のような元素的な世界が宇宙の物理的構造を成立させているところが自然学的な大きな特徴でもある。
 神話ではなく「自然」のものを万物の元のもの(どこから来るのか、原理、アルケーという)とした最初の人物とされるのは、「万物は神々に満ちている」という言葉と皆既日食の予言で有名なミレトス派のタレス(前585年頃)である。アリストテレスの言葉を借りるとミレトス派の自然学者、最初に哲学をした人たちの多くは「素材のかたちで考えられる原理のみをアルケーとした」のであるが、タレスは「水」をアナクシメス(前546年頃)は「空気」をアルケーとした。「水」をアルケーとしたタレス、「空気」をアルケーとしたアナクシメスの思想は、アルケーは生命の源泉であり、魂であるという生命原理であろう。一方、同じミレトス派のアナクシマンドロス(前570年頃)は「無限なもの」という抽象的な概念をアルケーとした。全宇宙を永遠に生かし続けるためには量として無尽蔵で質として無限定なものでなければならず、そこには相反する力を持つもの(熱・冷など)の対立と時間的な秩序をもった規則的な交替という着想があった。このような着想がありながらも、彼の関心は人間的なこと、なぜ人間だけが長い保育期間が必要なのかなど、人間のあり方、人間と深くかかわる文化などへの関心が高かったのではないかと想像する。ミレトス派の影響を受けた詩人クセノパネス(前570-前475)は、ずいぶん長生きしたからなのかはわからないが、アナクシマンドロス以上に人間探求への関心がみられる。人間は思惑のような不完全な知しか持てないと言いつつ、神は完全な知を教えてくれなかったから、人間は探求しつつ時間をかけて知を改良していかなければならない、というようなことを言っている。このあたりの思考はヘラクレイトスやパルメニデスにつながるのかもしれない。
 ピュタゴラスがイタリヤ南部で宗教と学問の両面を持った秘密結社を作ったのは、前530年頃とされる。ヘラクレイトスの前世代の哲学ということで、ピュタゴラス派という形で簡単に紹介するが、ピュタゴラスは著作がなく、また何といってもピュタゴラス教団という秘密結社という活動の場から、どこまでが彼の実績なのかがよくわからない。ただ、知の巨人であったことだけは間違いない。誰でもがその名前を数学の教科書で知っている。ピュタゴラス教団の話も面白そうだがこのブログの趣旨が変わってしまうので、そのあたりはオカルト専門の物書きに任せるとして、ここではいくつか要点をまとめておく。1つめは、少し宗教色があるが、輪廻転生、生物縁類の思想である。2つめは、「デルポイの信託とは何か。テトラクテュスなり。それはすなわちハルモニアなり。このうちにセイレン(歌魔女)たちが住まう」(断片58C4、58はピュタゴラス派の番号、Cは原作のニュアンスに示された資料)という断片から伺える宗教的儀式を数学的・哲学的なものに置き換える編集技術である。テトラクテュスはボーリングのピンが並んでいるような正三角形の形である。上から1+2+3+4=10を内実とする形でこれが彼らにとっての神聖な象徴であった。1:2(オクターブ)、2:3(五度)、3:4(四度)のように音階(ハルモニア)を構成している。3つめは、宇宙の原理を限定者と無限者の2つとして調和する宇宙生成観、あるものはこのどちらか、あるいはこのどちらもでなければならないという見解である。そして、奇数を限定者に偶数を無限者に割り当て、1はこの両者からなるということとしている。この理屈だと無限者が限定者による限定を受けて初めて宇宙形成が可能になるということになって、異なる限定者と無限者を調和させるための別の仕組みがいるはずだが、この役割を再びテトラクテュスが担う。発想の転換、似たものを似たもので置き換える、アナロジーによる転換であるが話のスケールが大きくて上手いなと思う。一定量の人は知的刺激や博識に弱い。宗教的儀式にのみ頼っていた妄信を学問、知による自己満足を紡げるようにうまく編集している。学問による魂の救済、といったところであろうか。少なくとも世界解釈において数の重要性に着目したことはピュタゴラスのすごいところなのであろう。ヘラクレイトスはピュタゴラス派のような博識は分別をもつことを教えない、とばっさり切り捨てる。ピュタゴラス派が数という絶対的・秩序的な規則をおいて、杓子定規に(言葉に語弊があるかもしれないが、分別し規則に乗っ取ることで心のコストを下げるという意味で)魂の救済を測ろうとしたのとは真逆に、ヘラクレイトスは規則を信じるのではなく、たたかいに心のコストを費やし心理を分別する理性を説くことで魂の救済しようと試みる。智慧は1つであり万物を通底するものであり博識は智慧ではない。万物を通底するものを洞察するのが智慧である。このあたりは仏教の般若に通じるものがある。

 さて、前置きが長くなったが、最初の問いに戻ろう。ヘラクレイトスは、「わたしにではなくロゴスに聞け」と言ったのである。ヘラクレイトスが傲慢な人だと解釈すれば、ホメロス以来のゼウスではなくロゴスで、すなわち自分自身がロゴスそのものだという答えだと解釈できなくもないが私はそうは思わない。ヘラクレイトスは王になりたかったのでも教祖になりたかったのでもない。タレスらミレトス派の人々が追い求めたアルケー、始原の探求とは、感覚的に表れている雑多なものがそのまま真理なのではなく、根本的に1つであると洞察されるさまざまな存在を雑多なものとして生じさせているその原因が真理である、という人間が普遍的に感じている直観、その1つの探求であった。そして、その1つからいかにして多が生じるのかを考えたのである。しかしその探求には苦悩があった。その苦悩を取り払うのが「ロゴスに聞け」なのだと私は感じた。「聞け」というからには「言葉」でなければならない。「語りかけるもの」「語りかけを理解するもの」「理解したうえで応答するもの」のキャッチボールに必要なもの、それがロゴスである。ロゴスを理解しない言葉を使うものは魂のない「聞くことも話すことも知らないものども」となる。人間の理性、と簡単に片づけられるものでもない。ヘラクレイトスはミレトス派の人々の苦悶を「ロゴス」という言葉で特定した。隠れようとする自然に語りかけなければならない。ヘラクレイトスにとって「ロゴス」は万物の支配者なのだ。同時にこの言葉は呪術的世界との決別を意味する。

知らなければならない。たたかいが共通的であり、またあらそいが正義であることを、そして万物はあらそいと必然にそくして生起することを。(断片80)

 この「たたかい」は「ロゴス」を具体化したものであるとみる。では、この「共通的」な戦いとは何なのか。存在の中での自己更新である。同一のものとしての生と存在は不断の自己更新という変化と運動によってのみ成立する。存在は常に非在へと傾斜しようとする、その存在の同一性、存在そのものを保つためには生へのたたかい、自己更新が必要なのである。人だけではない。あらゆる存在は自律的に存在し反対物との交互作用によって自己更新を行いながら秩序を保っている。ヘラクレイトスは、抽象概念の反対物の一致という考えに行きついている。分別するが存在するのは分別しないが存在するからで、正義が存在するのは不正が存在するからなのである。ヘラクレイトスはある意味で仏教的な直観を思惟している。反対物の一致、たたかい、自己更新、そして、隠れることを好むという表現、隠れた調和、このあたりが彼の直観の中での存在の構造なのだろう。それはヘラクレイトスにとっては燃え続ける火、火のような共通の魂であったに違いない。自己否定、自己更新の繰り返しである。
 対話を考えてみよう。主観と主観がぶつかる。その中から合意が生まれるのだが、その合意はそれぞれがお互いの価値を自分の中に取り込まなければ生まれない。ロゴスとロゴスがぶつかり他者の言葉というコンテンツの中にある価値を自分の中に取り込んで、合意という新しい価値が生まれる。研究概要にも書いてある対話研究の図は、1対1の対話を愚直に研究するだけで万物を支配する1が見つかるのではないか、といった意味を含んでいる。対話のアプローチについては、また改めて書き下ろしたい。
 世の中には様々な価値が浮かんでいる。人間は社会的な動物だ。その中で自分の役割を知らない間に与えられ自分の価値を取り込むようになる。それが不本意なことも多いだろう。役割に縛られ本当の自分を見出せずに本当の自分が自閉していくように感じる。本当にそうなのだろうか?答えはない。世の中の価値を取り込んで出来上がった今の自分が本当の自分ではないのだろうか?今までの価値観研究の方向性が人間の微分の方向に焦点を当てすぎていた気がする。人を分解することに執着しすぎていた。むしろ逆だ。世界空間に浮いている様々な価値があるということ、その全体集合をとらえるのは困難だが、その考えを前提にしなければならない。その上でヘラクレイトスの断片の中で一番気に入っている言葉に戻りたい。

    私は、自分自身を探求した(断片101)

参考文献:
ソクラテス以前の哲学者,廣川洋一,講談社学術文庫,1997.
ヘラクレイトス,高橋憲雄,晃洋書房,1995.