ゴールドラッシュ!

ゴールドラッシュ???

へぇ~と言う感じだが、今年は、金環日食、金星の太陽面通過、金星食と3つも珍しい天文現象を見ることが出来て、ゴールドラッシュと呼ばれているそうだ。おそらく、タイムリーな話題から連想すると、タイトルを見てその話かな~と思った人も多いかも知れない。しかし、その話題に全く興味がない私は、その期待を裏切って全く違う話をしたいと思う。

ゴールドと言うのは不思議な魅力を感じる色だ。情熱的でもある。金メダルを思い浮かべれば、何だかスポーティーでクリーンなイメージを連想するが、例えば、金バッチ、金満主義、のように、人間の欲得を揶揄するような悪いイメージもある。今日もあるメンバー所有のスマートフォンのカバーの色に批判が集まっていた(金色にすごい刺繍の柄だった、品がない?)。だが、過去も現在も、そして未来も、多くの人間が金の魅力に心を奪われてしまう現実は変わらないのだろう。

当グループの経済学勉強会で、あまりにくだらないと思って、しなかった話だが、金本位体制によって世界の為替が成り立っていた時代もあった。金本位体制は、金一定量と貨幣を交換することを中央銀行が約束する、と言う制度だが、実は、この金本位体制には、一応調整機能があった。当然、各国によって為替レートが違うので、裁定取引によって為替レートが高くなった国に金が移動する。そこで、その国の中央銀行が金融緩和を行い、流通する貨幣供給量を増やせば、物価が上昇し、自国通貨が下落し、調整メカニズムが働くはずだった。しかし、金保有量までしか緩和ができないと言う「足かせ」とインフレを恐れたために、現実的には、殆ど緩和は行われなかったらしい。

金を悪いイメージで捉えるのは簡単だが、やはり、金から連想するイメージは魅力的だ。取りあえず、何だかんだ言っても金色のものは売れる。私も金色は好きだ。何となく気が引けるので、あまり身に着けはしないが。銀色にしとくかな、とか思ってしまう。

私の世代だけかも知れないが、教科書に「金の窓」と言う童話が載っていた。ある少年が山の向こうの金の窓がある家を「いいな~金持ちの家なんだな」と毎日見続けていて、ある日、意を決してそこまで行くと、金の窓なんかなくて、窓から家族の笑い声や夕飯の匂いがもれてくるどこにでもあるような庶民的な優しさのある家で、金の窓は夕陽のせいだったと言うような話だったと思う。この少年にとっての金色は、きっと家族の温もりになったに違いない。少年は心に大きな財産を得たのではないだろうか。私にとっての一番の金色は、少年野球の監督をしていた頃、「いっしょにとったやろ」と言って少年たちが私の首にかけてくれた金色だ。思い出すのは、土草や汗の匂い、光、涙、怒号、笑顔、そんなものばかりだが、元気が出るし、美しい。

ラッシュまでは要らないが、たまには金色もいいものだ。

米国の良心

残念ながら、ノーベル言語学賞と言うのはないらしい。ノーム・チョムスキー。言語学の歴史の中では革命児であり、最も大きな存在なのだが、表題の言葉でピンと来るぐらい、どちらかと言うとアメリカおろしの過激な発言で知られる男である。彼に言わせると、人間は生まれながらにして生成文法を持っているそうだ。「文法は、文を弱生成し、構造記述を強生成する」~何のことかさっぱりわからないが、噛み砕いて言えば、学校で習ったような文法なんか重要ではない、句構造規則を記述することこそが重要なのだ、と言うことなのだろう。前者は表層を規定し、後者は文構造を規定する。私自身も変形生成文法の説明に現れる木を美しいと思って手でなぞった時期もある。人工知能的なアプローチとの融合で、自動翻訳システムの試作を試みていた時期もある。言ってみれば、世の中の流行だった。時代を追いかけたのである。当然のことながら、そんな試みがうまくいくはずもなく、次第に彼の名前は、この世界では薄れて行った。そんな中で、徐々に台頭してきたのが、隠れマルコフモデルに代表される、統計的確率的アプローチである。やはり、そこにも嵌った。統計確率しかないだろう、と断言した時期もあった。しかし、私は断言したことをすぐに撤回する名人である。今になって思うと、結局流行を追っかけたのではないかと。最近、また、テキストマイニング技術が必要になることが多くて、採用しているのはやはり統計的確率的なアプローチなのだが、それにも限界を感じる。

どんなアプローチをすれば人間らしい対話を獲得できるのか、その道は近そうで遠い。言語学なのか、確率なのか、そんなものは実現さえできればどっちでもいいが、人間は話すとき殆ど無意識である。知識を自動的に獲得するのは、無意識を表現するのに妥当な方法なのだろう。

話は逸れるが、古い言語学者にグリムと言う人がいる。グリム童話のグリムである。また、絵画や小説の世界にも、カットアップやフォールドインと言う技法があって、これらは、機械的な方法で、意外で新鮮なフレーズや印象を生み出そうと言う試みである。小説家では、バタイユやバロウズが愛用した方法でもある。自然言語を何らかの方法で論理的に説明したり、機械的に利用したりしようとすることは、何も頭の固い学者だけの特権ではない。芸術やそれに伴って生まれる付加価値ともしっかりリンクしている。

私は、行動予測能力を持った、感じのいいキャラを作りたいと思っている。自然に話せて、楽しくて、想像力に溢れていて、また仕事をお願いしたくなる、社長やマネージャなら社員として雇いたくなるようなキャラだ。そんなキャラを少しでも早く世の中に送り出すことが我々の使命なのだ。

ぶれないpart2

随分昔の話になる。25年も前のことだ。当時、某研究所勤務から一時的に戻された私は、ある組合の情報システムのコンサルティング業務を任され、当時はそれなりに有名だったコンサルティングファームの壮年コンサルタントと仕事をすることになった。年は私とふたまわり以上も違うし、そもそものポテンシャルも高そうだ。私は彼から吸収できることを全部学んでやろうと考えていた。その彼は、ことあるごとに「あるべき姿」と言う言葉を使った。あんまり乱用するので、最初は耳につかなかった言葉がだんだん耳につき始めた。だいたい「あるべき姿」って何なんだろう?そんなもの本当にあんのか?と考え始めた。

組合の委員長は、すごい甘党だった。副委員長はすごい辛党で酒飲みだった。昼は、委員長のケーキ屋のハシゴに付き合い、夜は副委員長の居酒屋のハシゴに付き合った。それが私の仕事の殆どだった。壮年コンサルタントも時々ケーキ屋のハシゴには付き合ったが、居酒屋にはいかなかった。酒を飲まなかったからではない。そう言う仕事のスタイルだったのだ。たぶん、いつもストイックに「あるべき姿」を探しているんだろう、と私は思った。

二人に付き合っていて、あることに気付いた。ケーキ屋に付き合った部下は、誰も本当のことを言わなかった。居酒屋に付き合った部下は、本当のことを言った。委員長の考え方はトップダウンで、副委員長の考え方はボトムアップだった。当然、仲が悪い。委員長のアイデアはとても合理的だった。副委員長のアイデアは、一見、発散気味の何かまとまりのない考え方だった。壮年コンサルタントのアイデアは、委員長のアイデアに近いものだった。このままだと失敗するな、と思った。壮年コンサルタントの「あるべき姿」は単なる政策論的なアイデアに過ぎないと感じたからだ。

私は、委員長を傷つけないように気を付けながら、正直に現状を報告し、現場はあほじゃない、副委員長のアイデアは現場の声をまとめ切れずにいるからだけで、これをうまくまとめるのが委員長の仕事だと訴えた。そう、現場は、自己の利益を最大化するように行動しているのです・・・全体最適化されていないだけで、知の集結、それが、今ある姿なのです・・・結果的に、私はこの仕事から降ろされた^-^;若いと言うことは、多くの失敗をするものだ。

気になりだすと、ずっと考えてしまう性質なので、本当に「あるべき姿」なんかあるのか、某研究所勤務に戻った後も頭の隅っこでずっと考えていた。あるような気もするし、ないような気もする。結論はなかなか出なかった。

その答えがようやく結論に近づいたのは、ある相場師の弟子になった時だった。高い、安いで論理的に考えるな、安く買ったものを高く売ると言う考えを捨てろ、すべては強いと弱いしかない、強いものにつけ、目の前にある現実のみを信じろ、と教えられた。要するに、相場には「あるべき価格」など存在しないと言うことだ。「あるべき価格」を創出するには、政策的に行うしかない。「姿」を「価格」に置き換えた瞬間、私の中で何かがはじけた。

もうひとつある。不動産鑑定理論の中の鑑定評価値として求める価格が、「あるべき価格」なのか、「ある価格」なのか、長いこと論争が繰り広げられた。不動産は一般的に流通性や代替性に乏しく株や債券などの相場を持たないなどの特性から、求めるのは「あるべき価格」なのではないかと言われてきた。しかしながら、長い間の論争の結果、鑑定評価値として求める価格は「ある価格」であると言うことで、決着がついた。不動産ですら、「あるべき価格」なんかないのである。

ようやく、私の中での長い心の論争にも決着がついた。すっきりしたのは、ほんの数年前のことだ。「あるべき姿」なんかない。「ある姿」を求めるべきなのだ。絶対とは言いきれないが、おそらく、この考えは今後もぶれないだろう。今でも、「あるべき姿」を口にするコンサルタントとは肌が合わない。