夢の続き

我々は(もしくは君たちは)、夢を持っていつも過ごしているのだろうか。夢を持って朝が始まっているのだろうか。夢を持って会社や集団に属しているのだろうか。先日、私が素晴らしいと思う弊社の仲間たちの多くが夢を感じられないと思って働いていると言う調査データを突き付けられた。小さな落胆はあったが、よく考えてみるとたいしたことではない。

夢派vs.現実派のように対立する概念が存在する集合体を単純なモデルで考えた場合、対立概念の均衡点を超えて力を得た概念が発信する情報伝達単位は、目先の状態では圧倒的優位に立つ局面に向かう可能性が強い。バランスが崩れると行き過ぎる、のである。しかし、不利な立場にある概念の情報伝達単位が絶滅することはない。当面の敗北が決定しても無くなりはしないのである。なぜなら、不利な立場にある概念の情報伝達単位の方が変化を好むからである。つまり、こういうことになる。優位な立場になった概念の情報伝達単位は、あまり進化しない。進化しなくても優位である時には変化したがらないものだからである。一方、競争上不利になった概念の情報伝達単位は進化する。変化しなければ絶滅してしまうからである。やがて変化は自然発生的な制御をもたらし、対立する概念は、適当な比率にバランスするように働き、力のバランスが等しくなったところで停滞した後、形勢が逆転し切り返す。そのうちに、不利であった概念の方が均衡点を超えて競争上圧倒的に優位な立場になる。このような行き過ぎと制御は、情報伝達単位の進化を伴って、際限なく繰り返される。繰り返されるうちにどちらの概念も進化により研ぎ澄まされていく。要するに、私が小さく落胆した静的な調査データは、その変化の過程の一瞬を見ているにしか過ぎないのである。

先日の弊社のシステム開発部のワークショップでのこと、夢について改めて考えさせられる場面があった。参加者が未来の工場の製品開発チームとして働いていると言う設定で、ドラえもんに出てくる数種類のツールから改良したいツールを選択してチームを作り、そのツールをさらに魅力的にするための製品企画を立てて、最後にチームでポスターを作ってプレゼンをし、投票によって優勝チームを決めると言うワークがあった。どれも夢のあるツールだったが、私は、理論上実現不可能だ、と言う理由で、迷わず「夢コントローラ」と言うツールを選んだ。なぜなら、夢をコントロールできるとすれば、それができたその瞬間、それは夢ではなくなってしまうからだ。どうやって実現するかは考えなくていい、と言う開発部らしくない前提条件があったので、アイデアはどんどん出た。「自分が寝ている間、時間が止まってくれないものか」利己的な私は(何と言っても、ソシエタス番号#4-1=自己中心的なアクティブ派なので)それが一番いいと考えたが、利己的なその意見は通らず、新製品のコンセプトは「皆で同じ夢を共有する」に決まった。なかなか素敵なアイデアだ、うん、悪くない、そう思った。しかし、我々のアイデアは見事に敗北した。ワークのゲームと言う意味で、優勝した「人の体の悪い部分を新しいものに着せかえられるカメラ」に敗北し、ロマンスと言う意味で、「あいあい傘に一人で入ると本当の自分の気持ちに気付き、やがてその傘は要らなくなる」と言うアイデアに敗北した。その敗北の意味は大きくはないが、何かうまく説明できない引っかかるものが心に残った。ともあれ、楽しめたことは確かだ。素晴らしいワークショップの企画をしたプロジェクトメンバー(全員が女性だった)に感謝したい。

さて、現実派の概念が競争優位に立ちそうな集合体の中で、この先、当面の間は夢派の概念の敗北色が強くなっていくのだろうか?現実派の概念が徐々に勢力を伸ばして、知らぬ間に夢派を取り囲んで行くのだろうか?

私はそうは思わない。夢派の概念の情報伝達単位の進化スピードによっては、変動を収斂する制御の強さを変えることができるし、切り返しのポイントを手前にずらすことも可能だ、と考えている。私が素晴らしいと信じている仲間たちの心の遺伝子は、すでに私が想像できる以上のポテンシャルを持っているからである。心の遺伝子は、動物学的な遺伝子とは違って、体の外に出て、進化を続けながら脳を媒体にして人から人へと伝わっていく。夢派の概念の情報伝達単位も多くの人の脳を渡り歩いて変化を繰り返し、進化を続けながら未来永劫生き続けるからである。そう言う意味では、多くの人と共有できた夢だけが生き延びることになる。夢を精度よく想像することで未来は変えられる。

つまり、夢違いではあるが(寝るときに見る夢ではない)、我々自身が夢コントローラそのものであり、我々の仕事は、進化し続ける優れた情報伝達単位を発信し続けることなのだ。そして、その仕事には終わりが無い。来年も10年後も100年後も、我々が消滅した後も終わらない。

とはいえ、来年が無ければ思い描く10年後もなければ未来もない。まずは、来年の夢の続きのために想像しよう。想像した夢の続きは、来年の今頃には現実になっていると信じて。

自ら選べ!

経済学の世界にマッチング理論と言うのがある。よく取り上げられる例に、男女のマッチングがある。男女は、それぞれ、選好リストを持っている。好きな異性の順序リストである。男性から告白しても、女性から告白しても、いつかは安定状態に達することになるのだが、ここで単純でかつ大きな問題がある。社会のルールが男性から告白することになっている場合、社会のルールが女性から告白することになっている場合に比べて、男性は、自分自身が持つ選好リストのより上位の女性とマッチングする。逆に、社会のルールが女性から告白することになっている場合、社会のルールが男性から告白することになっている場合と比べて、女性は、自分自身が持つ選好リストのより上位の男性とマッチングする。このことは数学的に証明されているが、ここでは触れない。要するに、待つよりも、一歩前に出る方が自分にとって都合の良い結果が得られると言うことだ。また、どちらかの選好リストが小さくなるようなことが社会的に起これば、マッチングが安定状態に達するのに時間がかかる。女性が自立し、選好リストが小さくなったために晩婚化が起こると言う説明をした経済学者もいる。非常に単純なモデルだ。

世の中の課題は、もっと複雑なモデルでなければ解けないと言う意見もあるが、私はそう思わない。複雑に見える社会の問題も、しっかりとした根拠をもって、確実な因果関係が特定できれば、意外と単純なモデルで説明できるのではないかと思っている。問題は、複雑だ、できないと考えてしまうこと自体にあるのではないだろうか。確かに、社会で起こる問題は、因果関係を特定しにくい。例えば、ある人が次に取る行動を予測する、あるいは、その人はなぜそのような行動を取ったのか、明確に答えられるのは、その人自身のみだ。いや、その人自身の言うことも怪しい。そう考え始めると頭の中の情報の糸がぐるぐる縺れて、複雑で難解な問題に思えてくる。

我々は、課題を解く時、その課題を分解し、絞り込んでから、ひとつひとつ解いていくと言う知恵を持っている。何らかの仮定や条件を付与することで、それは簡単に実現できる。

その人を消費者と仮定する。その消費者はマーケットである商品と出会う。マーケットにある代替可能な商品をN種類仮定し、消費者は価格情報を持ち、CMによってのみ情報を得ると仮定する。そんないくつかの仮定を置くうちに、消費者行動予測は、消費者と商品の単なるマッチングであることに気付く。実に単純だ。消費者は、選好リストに応じて商品を選ぶ。各条件や仮定は、選好リストを並べ変えるためのパラメータにしか過ぎない。しかし、ここで、また、一つの大きな問題に気付く。消費者は選好リストを持っているが、商品は選好リストを持っていない。そして、消費者は、選好しているようで、そうではない。消費者に与えられた情報は、商品サイドからのものでしかない。実は、この状態では、消費者は「選ばされている」のだ。商品が人を選んでいるのだ。この状態でのマッチングは、商品サイド、すなわち企業サイドに有利に働く。

賢明な読者は、もう、お気づきかと思うが、進化した消費者は、自ら選ぶ道を選択しようとする。その方が自分にとって有利であることに気付いたからだ。消費者の持っている選好リストのパラメータ(選考基準のようなもの)は複雑になり、より厳しくなった。しかし、この状態は、前述したように、安定状態への道のりを遠くする。つまりは、多くの消費者に最短のマッチング安定を示唆できる商品、企業が生き残る。仮に、「生き残る」と言う言葉が正しいとすれば、当初仮定していた「完全競争市場」は、その時点では勝ち残った企業の「独占的競争市場」になっている可能性が高い(なぜなら、「完全競争市場」は利益が無くなるまで企業の参入が起こり、企業は最終的に退場する運命だから)。果たしてそのような予測が可能なのであろうか。

何も恐れることはない。そんなに難しいモデルにはならない。一見、複雑に見える事象でも実は単純なものだ。

ソシエタスから生まれるエージェントがこの問題をすっきりと単純化してくれる。やはり、大きな第一歩だ。

ミーム(meme)

ミーム(meme)と言うらしい。

事務作業で必要があって、ここ数週間の自分の取った記録を見るために手帳をパラパラ捲っていた。青いインクの乱れた文字で、「ミーム(meme)」と記されていた。確かに私の書いたものだ。頭ががんがんしてきた。神保町の餃子の会(単なる酒飲みの会のようでそうでもない・・・)の翌日、荒牧英治氏のツィッター関連の自然言語処理セミナーを受けながら手帳をめくっていた私は、その文字を宇宙人からのメッセージのように見ていた。何なんだ、先週の自分の言葉が、わからない、思い出せない・・・、ま、いっか、そう言うことはよくある。そして、また、忘却の途についた。

週末、仕事を終えようとした時、不意に遠慮がちな荒牧氏の言葉が脳裏に浮かんだ。「え~、品のない言葉ではありますが、ググレカス、という言葉がありまして・・・」その時、私の目の前には、はっきりと横軸に時間、縦軸に人を取ったツィッターの発言散布図が見えていた、グラフのタイトルは「ググレカス」だったはずが、いつの間にか、「ミーム」に変わっていた。ミーム、ミーム・・・途端に甘い刺激を伴った痺れのような感覚に包まれ、私はググっていた。

はっきり思い出した。けいはんな通信フェアで、ひさしぶりにATRを訪れた日のことだ。楽しさと懐かしさと苦さを織り交ぜた、若かったあの頃の思い出。戻ってきた、と言う実感があった。遠くもなく近くもない場所に今いる。そうだった、NICT所属のU氏と居酒屋で飲んだ・・・あの時か。

「心の遺伝子の話があったじゃないですか、あれって、ミームのことですよね?」ソシエタスの話をしていた私にU氏が問いかけた。「は?ミーム?」お恥ずかしいことに、初耳だった。「え、知らないんですか?」ええ、知りません!と言うことで、酔っ払って忘れないように手帳に書き記したのが、この乱れた文字だったと言うことだ。

恐る恐る検索結果のwikiを見た。随分、既知のことらしい。ミーム学なんてものもあるらしい。なるほど、大変なことだ。読んでいると、私の考えていることに近からず、遠からずのような気もする。ただ、それはwikiだけでは確認できない。

無知と言うのは素晴らしいことなのかも知れない。何も恐れるものはない。自分流でやればいい。一昨日、ググった時はそう思った。

縁とは不思議なものだ。昨日、妻がキャンプ用品の調達をしている間、暇つぶしに隣の本屋をうろついていて、一冊の本に出会ってしまった(本当は、経済か企業会計のおもしろそうな本を探していたのですが・・・)。「利己的な遺伝子」(リチャード・ド-キンス著、紀伊国屋書店訳本)。どうやら、30年も前に書かれた古典らしい。なぜ、君はそこにいる?不思議な気がした。本を手に取った時、愛おしい、何となくそんな予感がした。

と言うことで、今私はその本と付き合っている。

ソシエタスがミーム(meme)の類型なのかどうかは、まだ分からない。