利己主義と利他主義

高椋さんのブログを読んで、思った。我々は利他主義を実現できる生き物なのであろうか。理性は自己利益を排除して他者と共存する行動を本当に選択できるのであろうか。大そうな題をつけたが、これは我々人類にとって過去からの賢人が解こうとして解けなかった、いや正確に言うと自然科学的に解けなかったセンシティブな問題であるような気がするからだ。

ダーウィンに始まった進化論の考え方がフロイトやピアジェ、ウィリアム・ジェームス、ド-キンスの思考と合流し、ミンスキーが提示したもの、それは自己であり、意識であった。情動であり、感情であった。つまり、心であった。我々もテーマとしてその答えを模索している。まだ、問題は解けていないし、もしかすると解けないかも知れない。ただ、(マークトゥエインがどこまでそれを意識していたかは知らないが)ダーウィンから始まった様々な思考の流れには、心に関する一筋の重要な論理的なラインがある。また、科学的根拠なしにではあるが、釈迦やキリスト、ニーチェ、デカルト、スピノザ、シェークスピア・・・過去の宗教家や哲学者、文学者は直感的にそのラインを知っていたのではないかと思う。

それを真面目に語り始めると1冊の本では済まない気がする。また、簡単にでも論理的に説明しようとするだけで、長い論文が出来上がってしまうだろう。大晦日の今日、掃除は終わってゆっくりしているものの、それでは1年ぶりに遊びに来ている長男の話も聞けないし、その前に妻が怒り始めるだろう。だいいち、出し巻き卵を作ると言う私の仕事がまだ終わっていない。今日は、話がいつ終わっても良いように、ランダムに思いつくままに話を続けよう。いつか、今考えているデザインがすっきりする日も来るだろう。

さて、表題の対峙から生まれる心の葛藤。自己と他者の定義を如何にするか。明らかに区別できる自己と他者の関係性をどう考えるのか。自己とは何なのか、多くの人がその疑問を持ち続け、そして先送りにする。先送りにしながらも、その答えを多くの人が感覚的に持っている。人生が終わる人に聞いてみるといい、何が大切だったのか。その時自分が大切だったと思う人ばかりではない。おそらく、愛する人を思い浮かべ、様々な人との絆を思い浮かべ。。。人は一人では生きていけないことを普通は生得的に知っている。社会的な行動を取ることが生存にとって有利であることを利己的遺伝子は知っている。何もこれは人間に限ったものではない。遺伝子は、利他主義的社会行動についての生得的な枠組みも持っている。その利他的なベースは生得的ではあるが、生まれつき高度で具体的な利他主義を学んでいるわけではない。我々が学ぶのは、もっと後だ。生得的な遺伝子をベースにして生存にとって有利に働くように徐々により具体的な利他主義を学ぶのである。道徳的な意味で、あるいは常識として、利他的な考え方を学んでいく。そして、生得的なベースと常識として積み重ねられた経験の境目がいつの間にか分からなくなる。しかし、生得的なものが無ければそれを学習することはできない。常に経験は生得的なものの上に積み重ねられるからだ。

今日は、人間は遺伝子を伝達する乗り物である、と言う考え方には触れないことにする。話が長くなりややこしくなるからだ。しかし、人間も生き物である。生存すること、水を飲んだり、食べ物を食べたり、呼吸をしたり、排泄をしたり、眠ったりすること、それが最も重要だ。つまり最も大切なものは身体であって、外部要因や内部要因によって引き起こされる身体反応を調節するホメオスタシス機能が正常に働いていること、そこから出発する。人は背景的に身体の状態を脳の体性感覚領域に伝えている。何も無ければ無意識である。しかし、ある閾値を超える身体的変化が起こった時、我々は注意を向ける。そして、意識的にその変調を感じることができる。そして、情動や感情が起こることがある。さて、ここで感覚的には合っているが、心を高尚なものとしてロジカルに捉えようとすると不思議なことが起きている。それは、情動(emotion)が身体的変化から遅れて起こると言うことである。先に身体に変化が起きる。悲しくて泣いている人がいるとしよう。この場合、時間的順序からいうと、「悲しいから泣く」のではなく、「泣いているから悲しい」のだ。感情(feeling)は正確に言うともっと高度なもの、最後の方で現れる。このことは、多くの文学者や哲学者が、多くの普通の人が直感的に心について知っていたことだ(身体や五感と関係する動因、注意、動作、感情、情動などの言葉や比喩表現を見ていると面白い)。「泣いているから悲しい」を理屈で捉えようとした者たちは、それに反発してきた、そんなことありえない、崇高な心への侮辱といったところだろうか。冷静に考えれば、理屈も通ると思うが。そして、今では誰もが認める常識となっている。科学の力で。

さて、ぼちぼちもとの話に戻ろう。

「自分はいいことをしたという満足感を得るため、または困っている人を見て、見ぬ振りをすることによる罪悪感から逃れるため」

他者への善意をそのような考えで行う人、もちろん、そんな人はたくさんいると思う。

しかし、ここで考えてみて欲しい。自分はいいことをしたと言う満足感が得られると考えること、見て見ぬ振りをすると罪悪感が起こるのでそれから逃れたいと考えること、そこまでには、随分時間がかかるだろう。これは、感情のもっと先にあるもの、感情と言うフィルタリングを通ったあとに抜け出たいくつかの行動オプションを判別する時の人の行動モデルだ。我々が現在取り組んでいる価値観やソシエタスのようなものと状況などの因子、そして行動オプションを組み合わせて構築するモデルもこのような部分の類似モデリングの一種だろう。つまり、かなり高次にある人の心の判断モデルと言うことになる。

ところで、他者との関係は、もっと単純なところで答えが決まることの方が多い。「可愛いからいいや」「嫌な奴だな」「面白い」「いい奴だ」等など。「快(ポジ)」、「苦(ネガ)」の反応は、もっと原始的な反応、つまり情動より前の身体で起こる。「可愛い」云々の言葉が表象される状態になるのさえ、もっと後だ。純粋な情動が起こる時、事後のモデルに渡されるオプションは既にいくつかに絞られている。理屈を考えるのはずっと後だ。ポジティブな反応から引き渡される行動オプションを判別するモデルに、つまり理屈や状況の変数を利用したモデルに、満足感や罪悪感と言う変数がなければ、それらを意識することはない。

確かに人は利己的遺伝子に支配されているのかも知れない。しかし、生きていく上で重要な選択に関することは、「健康」であり、「幸せ」=快、を感じることだ。「幸せ」を感じるからこそ、利他的な行動を選択する、あるいは避ける。幸せを感じるからこそ、利己的な行動を取る、あるいは避ける。どの場合でも心地よいのである。また、「苦しい」から利他的行動を選択する、あるいは避ける、「苦しい」から利己的行動を選択する、あるいは避ける。どの場合も苦しいのである。それらが行動の本質であり、それ以上の理由はない。

人は複雑な行動選択モデルを数え切れないほど持っている。それは、生きて行きながら、経験・学習を繰り返しながら、刻々と変化している。現在と書いた瞬間に、その現在は過去になっている。他者との関係における自己の過去の行動に対して、自己の善・悪の理由を求めるなど愚の骨頂だ。その行動を取った時の自分はもう死んでいる。そんなものは暇人のやる仕事だ。重要なことは、発想するのにかかる時間以上の未来のために発想することだ。考えている間にやって来ない未来のために、過去の情報を活用するのはありだろう、過去の情報は止まったまま変化しないから組みやすい。

おっと、まずい、まずい。仕事をしているのか、と声をかけられてしまった。

仕事はしていないよ~♪ 今そう答えたが。。。

私が言いたい最も重要なことは、利己主義も利他主義もそこに求めるべき行動理由などないと言うことだ。すべての答えは自分が一番よく知っている(常に自己同一性が維持されていればであるが^-^)。

では、皆さま、良いお年を。

「きりんさん」part2

あれから、佐々木寿信氏の「きりんさん」を購入した。可愛らしいカバーの本だった。その本を手に取った私は、まるで自分の子供の頭を手の平で撫でるような思いでその詩集を1枚ずつめくった。ある時は、心の色が湯気で見えなくなるようなぼんやりとした、でもはっとするする言葉、またある時は、自然に笑みがこぼれるような温かみのある言葉、母と子に繰り返される呪文のような不思議で暖かい言葉が少しざらざらした紙面に並んでいた。

彼の師匠なのだろうか、ある女性詩人が書いたあとがきを読んで胸が詰まった。彼は大学に進学してすぐに統合失調症になり、世間との接触が難しくなったようだ。大学を辞め、仲間にも助けられ、母親と堅実な暮らをしていたようだ。女性詩人のもとに、若い頃の彼から電話があったそうだ。弟子になりたいと。電話口の向こうから聞こえる、どもりながらの言葉にならない、でも強い意志を持った思い。女性詩人は、弟子は取らないが書いた詩を送ってくれればいつでも読むと答えて付き合いが始まった。それから彼はコツコツと印刷工場で地道に働きながら、賞を2度取った。若いころ助けてくれたお母さんは、認知症となる。その話には触れていないが、「きりんさん」を読めば想像ができる。小さな部屋には、少しくすんだ硝子窓から差し込む緩やかな光のせいで、妙にほっこりとした空気が漂っていて、そこに何をするでもなく正面を向いて横並びに座っている「きりんさん」の親子のような二人の姿。そんな風に母親と暮らしながら、何とか詩集を出したいと言う思いが彼を支配していったのだろうか。その気持ちは、私には分からない。師匠的な女性詩人に、印刷工場でコツコツと働いた中から掛けていた生命保険60歳で満期を迎えるから、そのお金で本を出したいと、だから詩を選んで欲しいとたくさんの詩を送って来たそうだ。それから、その満期が待ちきれない彼は、まだかまだかと何年も待ってこの詩集を出版したという。どうしてもこの詩集を出版したかった彼の思い。しかし、お母さん「きりんさん」は、この本を見ることなく他界した。

私は、この本を中古品で購入した。彼に印税は入らない。あとがきを読んだ時、少し、申し訳なかったような気持ちになった。でも、それでもいいんじゃないかと今は思っている。彼が発した言葉を私の心が受け止め、そして、また新しい言葉を紡いでいく。たぶん、それが、彼が発信を望んだことばの魂なのだと思うから。そう思ってこのボールを誰かに投げたい。

書けなかった読書感想文

この2年、私の周りでは”価値観”という言葉をよく耳にする。
あわせて”どういう時に価値観が変わるのか”を考えることがある。
このとき、いつも心に浮かぶことがある。

小学校高学年か中学校の夏休み、読書感想文の宿題が出された。
さて何の本を読もうかと図書館をうろうろしていると、
マークトゥエインの「人間とは何か」という本に目が留まった。
トムソーヤの冒険を書いた作者だし、何だかかっこいい感想文がかけそうな気がして
その本を読むことにした。

しかしその思惑ははずれ、それは苦しく恐い本だった。
中でももっとも私を苦しめたのは、
”誰かのための行為も、所詮は自分の為に過ぎない”という部分だ。
「自分はいいことをしたという満足感を得るため、
 または困っている人を見て、見ぬ振りをすることによる罪悪感から逃れるために過ぎない」と。

「いや、純粋に相手のためを思っての行為があるはずだ!」
反論しようとするけど、その主張を打ち砕くことができない。
本を読み進めたら答えが出るかと思いきや、一向に出てこない。
それまでの価値観が崩壊しそうな恐怖から、その本をそれ以上読み進めることができなかった。

以降誰かから親切をうけても、純粋に喜べなくなってしまった。
そして誰かのためにと思っても、所詮は自分の自己満足だと思って躊躇する。
それまで崇高だと思っていた”誰かのため”という行為に、マークトゥエインの影が付きまとい、
振り払うことができなかった。

大人になるにつれ「たとえ自分のためでも、いい事はいい事なんだからいいんだ」
なんて自分に言い聞かせ、その影は小さくなった。

夏休みの宿題はというと、結局別の本を読んで提出した。
何の本だったかも記憶に残っていない。
うん十年たって、やっと宿題だった読書感想文を書くことができた。

そろそろあの本を読んでも大丈夫なんじゃないだろうか。
子供の自分から出されていた”続きを読む”という宿題が、今ならできそうな気がする。