性のお話、Genderのお話


東京の大学院時代、私はある高名なジェンダー研究・女性学の社会学者の先生に師事していました。
だからってわけではありませんが、私自身もジェンダーに対して高い意識を持とうと努力しています。
人々のコミュニケーションを考えると、ジェンダーは無視できない要素だと思います。

前に藤井さんからジェンダーについて書いたら?と言われたことを思い出して、ちょうど先日和田さんが「男性脳」「女性脳」などの話をしていたので、ちょっと便乗してジェンダーについて書こうかなって思いました。

私自身の研究領域がオタク文化でしたが、既存の文献を漁っていくうちにある事実に気づきました。
オタク当事者である研究者は、性的なものへの言及をほとんどしないのですね。
一方、オタクに興味を持ちながら当事者から距離を置く「部外者」の研究者は、性的要素を考慮した文献を多く生み出しています。

私は断言します。オタク文化は性と非常に密接な関係にあります。
オタク文化に限らず、日常生活でもジェンダーの非対称性というものが容易に観察できるのです。
例えば男性誌と女性誌。男性誌のカバーはほとんど女性の写真ですが、女性誌はほとんど女性の写真です。
あと、男性が普段出かけている時も女性を見て、女性が同性を見るという現象が見られますが、つまり女性がみんなの注目を一身に受けるというわけです。
このことから、男性は「見る」こと、女性は「見られる」ことに慣れているとも言えます。

ここでちょっと話は変わりますが、私が10年にわたって観察してきた、ある興味深い事例を紹介します。
私は大学のアニメーション研究会(いわゆる「オタサー」)に所属していましたが、ある「一風変わった」先輩がいました。
その先輩は、見た目からして男性だって分かるのですが、サークルの合宿に参加するときはばっちりメイクをして女装して来るのです。

大先輩だから誰も面と向かって嫌味を言いませんが、みんなに「異常者」と思われてサークル内では完全に孤立していました。
それにも関わらず、毎回の合宿には必ず来て、一人で黙々と同人誌を作っています。
私がその先輩に始めて会った時、「あ、これは面白い人だ」と直感で思って交流を始めました。
(怖いから距離を置いたほうがいいよ、とよく他の人に言われていましたが。)

先輩は一見すると、典型的な男性的オタクでした。
18禁を含む美少女アニメを見て、美少女ゲームをプレイして、美少女フィギュアを集める。
しかしコミュニケーションを続けていくと、先輩は美少女キャラクターを男性の視点で「見る」というより、自分自身を女性キャラクターに投影して心の慰めを求めていたのです。
そして無視されて疎まれるにも関わらず、毎回合宿に来るのは、「一般の女」と同じように「見られたい」欲望があったからだそうです。

やがて先輩は性別の違和感を訴えて病院に通うようになりました。
「性同一性障害」と診断され投薬治療が始まりました。
そんなある日、先輩は突然「オタクをやめます」と言い出して、理由を聞くと「私の人生における美少女キャラクターの役割は終わった」と話したのです。
キャラクターに自分を投影する必要がなくなったということですね。「女性としての自分」に自信を持ったという意味だと私は解釈しています。
男性のリビドーを満たすために作られた男性向けオタクメディアがこんな風に消費されるとは、完全に意図せざる結果ですね。

その後、さらに面白いことが起こりました。
先輩は、少しずつ男性向けメディアに疎外感と嫌悪感を覚え、ボーイズラブなどの女性向けメディアに興味を持つようになったと言い出しました。
かつて愛していた作品たちは、今や価値のないものになってしまったのです。
私は気づいていました。女性ホルモンの投薬治療で、先輩の体も心も少しずつ変わっていくことに。

ジェンダーという語は、社会的・文化的あるいは心理的な性のあり方を意味しますが、やや濫用されるきらいがあると私は思います。
先輩の変化を10年間観察していると、明らかに生物学的性差が大きな役割を果たしているのです。
性別の違和感、つまり性自認(ジェンダー・アイデンティティ)がジェンダーの範疇と理解されますが、先輩の場合はジェンダーから入って、女性ホルモン投与という化学的治療を経て、そして生物学的な性――セックス――が台頭しました。
もちろん私が実際に観察したのはこの一例だけですが、「性=ジェンダーは社会文化的・心理的に形成される」と考えていた私には衝撃的事実でした。

ラディカルなジェンダー論者やフェミニストは、ジェンダーばかり語ってセックスを度外視する傾向があります。そういう人たちは、ほぼ「性差別」(主に女性差別)を“証明”するために「ジェンダー」を語っています。
しかし実は両者が複雑に絡んでおり、きれいに分けることができないのだと私は思います。
和田さんの先日の記事に「男性脳」「女性脳」の話が出ていますが、ミクロな観点を取ればすごく「女性脳」の男性がいればすごく「男性脳」の女性もいます。
しかし、集合的分布というマクロな観点に立てば、「男性脳」側には比較的に男性が多く、「女性脳」側には女性が多いという現象も注目に値すると思います。

「男性=男性脳」「女性=女性脳」という短絡的で生物学的性差を絶対視する考え方はもちろん間違っていますが、生物学的性差の影響がないと言ったらウソになります。
さらに先輩のような性別の違和感に苦しむ人がいることを考えると、「男性の女性脳度」「女性の男性脳度」と「性同一性障害」発症者数の相関も見てみたいですね。
もしかすると、すごく女性脳の男性とすごく男性脳の女性は性別の違和感を覚えやすいのかもしれません。
・・・で、その性別の違和感はまた肉体的側面と社会文化的側面があるので、めちゃくちゃややこしいです。だからジェンダーとセックスは複雑に絡んでいて両方を否定せず科学的態度で究明する研究者が必要なのだと思います。

※ちなみに私は「性同一性障害」という言葉(病名)があまり好きではありません。その「障害」の内容が少なくとも一部は社会・文化によるものだからです。生物学的=肉体的・物理的なモノに対する違和感はセックスの範疇に入りますが、私たちの社会が「性差による男女の役割分担」という二元論から脱却して多様な性のあり方にもっと寛容になれば、社会文化的側面における性別の違和感に苦しむ人がかなり減るはずです。

最後に先輩の話に戻りますが、彼女は今熱心なボーイズラブの愛好者になっています。男性同士のロマンスをテーマに小説を書いては同人誌即売会に出展します。
ところが、一般の男性オタクとボーイズラブ愛好者(いわゆる「やおい」ですね)の間にはシャープな性の非対称性が見られます。
これも和田さんが書いていましたが、「男性脳は独占、女性脳はシェア」というところが大きく関わっています。

美少女ゲームとかをプレイするとよく分かりますが、こういう男性向けメディアって、男の主人公がほぼ「透明」になっていて顔が分からないし、性格などもすごく薄いんですね。
最近主流になったフルボイスのゲームでも、男の主人公だけ無声、あるいは声がミュートできるものが圧倒的に多いのです。
男性ユーザーは女性キャラクターを独占するため、自分が作品世界に感情移入できる「媒体」があればOKで、邪魔になるだけの男性主人公に出しゃばって欲しくないわけです。
主人公の描写なんかどうでもいいんです、彼らにとっては。
(もちろん、女性キャラクターに感情移入する先輩のような本来のターゲット像とかけ離れた少数派は違いますが。)

一方、ボーイスラブでは女性キャラクターが男同士のロマンスに介入する事は絶対ありません。
やおいの人たちは、男性キャラクターを自分のものにしたいのではなく、彼らの恋愛ストーリーを外から楽しんで、そして共感を求めるべく他の同好の士とコミュニケーションをするのです。
また、作品の中でもキャラクター同士の関係性を重視し、彼らが「パートナー」になっていくコミュニケーションの過程をじっくり堪能します。その中に自分の存在など必要がないのです。

これほど鮮明な性差があるのに、自分自身がオタク当事者であるオタク文化研究者が性への言及を避け続けるのは、やはり非常に不自然に思います。
彼・彼女たちからすれば、「きれいな」オタク文化、「きれいな」自分を、研究を通して描き出したいのでしょうね。

まとまりのない文章になりましたが、私のGender/Sexに関する色々な考えを書き出してみました。
「ジェンダー業界」や「オタク研究業界」の一部の方々が見たら激おこレベルの内容ですが、私の本当の気持ちだから気にしない(笑)。
やはり自分に正直に生きていきたいですね。


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