その向きは油断するとすぐに変わる。追い風は、明日の逆風。逆風は、明日の追い風。

大漁はどこにあるのか、漁師はいつも考えているに違いない。ただ、その答えはない。緩やかな凪の日、誰でも手掴みで魚が獲れる日、そんな日が年に何度かある。市場も同じだ。その時だけ投資すれば確実に儲かる。しかし、その選択には、勇気と多少の知恵がいる。小さな成功経験からは何も得られない。潮目はすぐに変化する。そして、風は気紛れだ。

一昨日、産総研のM氏と飲みながら話をしたときのこと、過去の話だが、あの時は小さく成功せずに大きく失敗して良かったね、と。大きな失敗は、希望に満ちた新しい明日を生む。小さな成功は不毛なジレンマに満ちた未来を生む。二者択一を迫られたら、私は迷わず前者を選ぶ。

素人のように発想し、仕事を成す時は玄人である(著名な研究者のK氏の言葉らしいものを少し変えた)。仕事を成す時は皆玄人、それは当然なのだ。そこに達していないものは問題外であると言う仮定で、では、その玄人は素人のように発想できるであろうか?玄人になったものは、無意識のうちに知らぬ間に素人の発想を失う。玄人が出発点に戻るのは至難の業だ。玄人は、素人であった頃の自分をいつの間にか忘れ、常に自分が正しいと感じて論理を展開する。確かに、それは美しい。

しかし、マーケットでは美しいものは生き残れない。論理の美は、市場で何の役にも立たない。策士、策に溺れると言う言葉があるが、強い論理性は市場での弱さの裏返しである。ロジカルなものほど市場の餌になる。インチキ抜きの相場師が相場を張る時、マスメディアからの論理的な、集計縮約的な情報を何も見ない。敢えて受け付けない。脈々と流れる生き物のような数値データの変化を見て感じ続けるのみだ。その動的な変化は、彼の心に刺激を、鼓動を与え、彼に「動け」と教えてくれる。

玄人集団にとって重要なことは1つだけだ。その集団に属する人すべてが、明快で論理的な価値観に流されないことだ。心と頭が常に素人である誰かが必要なのだ。

眼を瞑って獣になろう。獣になりきって感じる瞬間には、きっと耳の後ろから風が吹いて来る。

指に唾をつけて風にさらしてみるといい。君の指からゲームの行方が見えてくるはずだ。風向きはどっちだ?ゲームはどう転ぶ?

さて、はたして今、君に風が吹いているのか?

緩やかな風が耳の後ろを擽る、そう感じるなら、きっと君にも追い風が吹いている。君がそう感じたのならそうなのだ。その瞬間を何も疑うことはない。君の感覚は絶対だ、君は君を信じればいい。

しかし、機はすぐに去る。君にとって重要なのはスピードと動物的な直感だ。中長期の論理ではない。そんなものを咀嚼しなければならないとすれば、それはむしろ君、あるいは周辺環境の罪だ。もし、その心地よい緩やかな風が君の耳の後ろを擽っているのなら、少なくとも君がそう感じるのなら、論理とのシーソーで迷うことはない。君は草原を駆け抜ける獣なのだ。今しかない、そう思って走り始めればいい。全力で、ただ、感じたままに。


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