神の言葉


「きりんさん」

母さんきりんの
そのそばで
もくもくしているきりんさん
とっても とっても
いい日です

母さんきりんの
お話を
ふむふむしているきりんさん
とっても とっても
いい日です

いつか
きっと
思い出す
とっても とっても
いい日です

http://www.tatsuno-cityhall.jp/abh/zaidan/doyo/20/20ki.htmより

お母さんは、「神の言葉」を話している。その横で息子が「もくもく」「ふむふむ」しながら笑っている。穏やかなとてもいい日だ。「いつかきっと思い出す」、穏やかなとてもいい日だ。とても暖かい。
差し込んで来るほんのり明るくて穏やかな光。部屋にいるのだろうか、部屋にいるとすればどんな部屋?和室?洋室?いやいや公園?どれを想像しても本当に穏やかな日差しが見えてくる。日常であるべき、日常の。
この詩は、2004年、第20回三木露風賞の最優秀賞作品に選ばれた童謡で、湯山昭氏の作曲、佐々木寿信氏の作詩である。聴いたことのある方はいるだろうか。もし、聴いたことがあるなら、その時あなたはどんな風に感じて聴いただろうか。作詞をした佐々木寿信氏は認知症の母親と暮らしていたそうだ。今は知らないが。彼の耳には、母親の言葉は神の言葉に聴こえたのだろうか。
認知症の母親の言っている意味は分からない。ただ、彼は、それを「もくもく」「ふむふむ」と聴く必要があったのだ。

何度も読み返して欲しい。この詩には、様々な心の課題に対する多くの答えが詰まっているような気がする。我々の心の出発点と終着点だ。私たちはみな母親や父親の言う言葉が分からなかった。そこから出発した。そして、いつの間にか今喋っている言語を手に入れ、喜怒哀楽を家族や仲間と分かち合ってきた。言葉があるから、楽しい、そんな風に言える人間は、今世界に何パーセントぐらいいるのだろう。場合によっては、そもそもインプリマであったはずの親との問題で悩むようになり、学校や社会、自分が置かれた環境の中で様々な人間関係の狭間で本当に苦しむこともあったかもしれない。でも、生き延びること、それが重要だ。壁を越えて生き延びれば、自分でも気付かないうちに人の心は変わっている。今まで聴こえなかったいろんな人の声が聞こえるようになる。例えば、自分が子供を持った時、子供の声は神の声だと言うことに気づく。インプリマになった自分は、神の声を発しながら、神の声を聴いているのである。
その時、本当にささやかな幸せを感じることができるだろう。
しかし、それで終わりではないのだ。いろんな声が聞こえるようになったと思ってから、さらに長生きすると、再び神の声、つまり母キリンさんの声を聞くことになるのだ。俳優の長門氏は「洋子の国の言葉」と言ったそうだ(先日、幸運にも「コモンセンス知識と情動研究会」で島根県出雲市の医療法人エスポアール出雲クリニックの高橋幸男院長と話をする機会を得たおかげで、多くの心のからくりが見えるようになった気がする。キリンさんの話も先生にして頂いた)。洋子の国の言葉は理解するものではない。「もくもく」「ふむふむ」と学ぶのである。
そして、誰でもが、やがて、自分自身が神の言葉を発する時が来る。東さんの研究になるが、ある言葉を入力にしてグーグル検索で得られた画像から色の情報だけを抜いて比較すると、幼稚園と老人ホームが同じ場所にいた。人は昔いた場所に戻ろうとするのだろうか。

いくら、心が病んでもいい。病んでいるのではなく、それこそ、個性だと思いたい。個性が重要だと言うけれども、人はみな生まれつき個性を持っている。個性は重要ではない。脳は同一化することを望み、同一化できた時点で社会人と認められ、同一化できなくなった時点で異端者と見なされる。そうであるならば、人はみな社会人と異端者の領域を行ったり来たりしている。心の社会をしっかりと見据え、心のデザインについて考えること、それが私の残りの人生に与えられた仕事だと思っている。
本当に心は脳なのか、最近、ふと思う。心が脳だと、そうなったのは最近の話だ。私は、心が脳だとは思っていない。脳は単に心を表象するものに過ぎない。体が大切である。心臓と書くが、もちろん胸にも心がある、お腹にも、手にも足にも心がある、体中のいろんなところに心がある。体と心を表す言葉、日本だけではなく、世界中にそんな言葉が溢れている。昔からある言葉は自然科学におけるエビデンスより重い、と私は考える。過去の賢人の知恵は伊達ではない。確かに最近の測定系の脳研究は目覚ましい成果を上げている。そういう努力を積み重ねることで、自然科学的根拠を揃えていくことは確かに重要である。そうではあるが、しかし、私は絶対にやらない。これはブログを最初に始めた時に書いた、ぶれない部分の一つである。思い出してほしい、時代を語るな、想像力を語れ、である。意地を張っているわけではない。クールに考えれば、自然科学的なエビデンスは賢人たちの努力でやがてそろう。そこに興味はない。もっと先のことを想像したい、それが人間にできる最高の科学である、と思うからだ。私にとって自然科学的なエビデンスなんて何の役にも立たない。

それより、我々人間は、キリンさんから学べることが一番多いのだ。アメリカの研究ではあるが、面白いレポートを目にした。アメリカ人の被験者35万人の幸福感に関する調査を行った結果、人の幸福感をグラフで表すと、意識が芽生えてから20歳に向かってどんどん下降し、30歳から~50歳ぐらいまでがどん底で、それを過ぎた後に急上昇し、死ぬ前に一番幸福を感じると言う鍋のような曲線になるそうだ。やはり、社会人と認められているときより、異端、神の言葉を話せるときが幸福らしい。
その昔、私の神は、私にこう言ったような気がする、生き延びること、それが最も重要だ。
生きる意味を問うても神は教えてくれなかった。ただ、生き延びること、それが最も重要だと繰り返した。
それならば、生き延びよう、と思った。やがて母キリンさんのようになって、公園の陽だまりの中で息子の「もくもく」「ふむふむ」の姿を見ながら神の言葉を喋ろうと思う。それがきっと本当の幸せと言うものなのだろう。あのいい日を「いつか」「きっと」「おもいだす」のである。


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