生きているということ


ある子は生まれた時、両掌に肉の塊を握って生まれて来た。

肉の塊は死んだ双子の弟だった。

テムジン(チンギス・ハーン)もそうだった。

何てことはない。

その肉の塊はその子が生きている証だった。

別の子は、生まれてすぐに取り違えられて、本当の母親と離れた。

母親は気付かなかった。

当たり前だ。母親に非はない。

男の子か女の子か、よっぽど特徴がない限り、区別はつかない。

相手が誰であっても、皆、精一杯大きい声を出して泣く。

それが生きていると言うことだ。

大人になってしけた居酒屋で飲んでいて、

退屈という理由だけで少し気になる女の子に電話する。

彼女の声を聞いて妙に浮いた気分になって心がそわそわし始める。

呼び出して、意味もなく盛り上がって、

その後ディスコに行って踊った後に乾いたキスをした。

乾いていても胸の鼓動が少しだけ速くなる。

あれって何なのよ、それも生きているということ?

パチンコ屋で玉が出なくてイラついていると、

隣に座っていたおばちゃんが聖書のワンフレーズを口ずさみ始めた。

急にやる気がなくなった、確かに怒りからは何も生まれない。

おばちゃん、これやるわ。

残っていた玉を渡すと、おばちゃんは、大切そうに玉をひとつひとつ自分の皿に移した。

銀色の玉を摘まんでこちらに見せながら、

まるで天使のような笑顔で、ありがとう、と言った。

その後、急にバットが振りたくなってバッティングセンターに行った。

履いていたサンダルを脱いで、バッターボックスの端にきちんと揃えた。

飛び出してくるボールを腹の中心で、腰で、そして足で捉えた時、

しっかり右足の親指の先にボールの重みが伝わって来た。

だけど、その重みはおばちゃんが摘まんでいた銀色の玉と変わらない。

これも生きているということか。

辛いと噂のカレー屋でカウンターに座ると、

目の前に「水を飲むな、飲んだら地獄」という貼紙がしてあった。

その次の行には、「ヨーグルトが先、玉子は最終手段」と。

辛い、汗が止まらない、なのにうまい。

昨日のアルコールが抜けていく。

女の子が泣いている。

男の子はわけがわからずとまどう。

子供が笑っている。

大人はわけがわからずとまどう。

なぜ、悲しいのか、なぜ、おかしいのか、

その理由は本人にしか分からない。

誰でも泣きたいから泣き、笑いたいから笑う。

泣きたい、笑いたいが生きる意味である。

理由なんか本当はない。

それが生きていると言うことなんだ。

そこに理由を求めれば、人は簡単に不幸になれる。

もちろん、人は一人では生きていけない。だけど、いつも一人でいること、一人で生まれ、一人で死ぬということ、その単純さを受け入れるだけで、おおよその困難は乗り越えられる。コモンセンスを追い求めれば追い求めるほど、薄っぺらで辛い人生が待っている。それもまた生きると言うことを実践するための技術なのだと思う。

君は笑え。

赤く笑え。

君は笑うな。

しらじらと。

その戸を開け、

もうあの格子戸には戻るな。

外へたて。君の笑う外へ。

そこには、君だけの太陽が待っている。その太陽が見えると言うことは、君が生きている証だ。肉の塊を握って生まれて来た子も普通に生きている。取り違えられた子も右腕の後ろの赤い痣のおかげで本当の母親に気付いてもらえた。その痣も生きている証だ。経験価値と言うのは、誰かがただ生きているということに過ぎない。本人以外は誰も分からない。その価値を丸めると言うビジネスやマーケティングは、何の愛も生まないと思う。人間心理が作りだした見事な虚構。真理があるとすれば、それは唯一、自分の心の中、自分と他者との線引きの無くなった心の中にのみ存在する。つまり、生きるために、生きるという、各人で分散したパースペクティブが誰の心にもあるということ。大まかな言語コミュニケーションは大切であるが、それは誰にとっても精緻でないことを忘れてはならない。外界に左右されず、屹立した、生きている自分の人生を生きて欲しい、そういうことだ。


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