玉子


気が付けば、もう五月だ。

気が付けば、あの娘はもう中学生だ。

そんな当たり前の月日が流れて行く。そして、我々は老いて行く。どっちのタマゴか悩んだ。卵なのか、玉子なのか。漢字の印象は受け取る側の意味を変える。その印象には意味はないのだが。思い出すと、まるで、昨日のことのようだ。私の足元で一人の女の子が生まれた。部屋の空気も少し冷たい二月初旬の朝、私と小学生の長男と次男は、朝ごはんのパンと湯で卵を食べていた。サラダは作っていない。食卓の下にもぐり込んだ格好で食卓の足を掴んで彼女の母親が気張っていた。産婆さんが、もうちょっとや、頑張り、大丈夫、はいて、すって、と訳のわからない声を出していた。はよ、食べ、遅れるで、私の声に長男が顔をあげた。宿題やってへんし、食卓の上のその声はいつもと何も変わらない。次男が顎をしゃくり上げながら卵を乱暴に口に入れる。行儀悪いな、そう私が言った瞬間だった。大きな母の声がして、明らかに変化を感じた。おぉ、次男が卵を咥えたまま、食卓の下を覗き込んだ。反対側から覗き込んだ私と目が合い、玉子を左手で口から取り出して言った、玉子みたい。その娘は、玉子のような頭をひょっこり出していた。すげぇ、と次男がいい、ほんとにすげぇ、と知らぬ間に食卓の下を覗き込んでいた長男が言った。お父さん、あっけにとられていた私に産婆さんが大きな声で呼びかけた、あぁ、忙しくなるねんな、と私はそう思った。産婆さんに取り上げられた娘は、くしゃくしゃの顔を恥じらいもせずにこちらに向けて大きな声で泣いた。玉子が泣いた、茹で卵を頬張りながら、次男が笑った。

それから、玉子は泣き、そして笑い、気が付けば喋っていた。

二人の小学生は、喜び、楽しみ、怒り、悲しみ、時には傷つき、色んな思いを感じて大人になった。これからも自分の目の前に現れる現実と向き合い揺れる自分の心と付き合っていかなくてはならない。死ぬまで、いつまで経っても不完全な自分の心と向き合わなくてはならない。

すべてが、あっと言う間だ。

娘は、山の学校にいる。彼女自身がそう言っている。山には都会にいた時には感じられなかったものがたくさんあるそうだ。娘の言う山とは何なのか、私のいる場所と娘のいる場所は違うのか、私にはわからない。自分は一人で生きて行かなければならない。そう感じながらも、人は言葉を発信する。そして、結局一人であることを再認識する。娘の声は無意識の中で時々遠くの山から届いてくる。その言葉、その声から伝わってくる何か。一人であると言う認識を持った強い個がつながるための何か、その不思議な何かだ。山と言う場所が重要なのではない。玉子のように生まれ、空気を吸って泣き、言葉を覚えて喋り、その不思議に山も都会もない。人の心には、長い時間を吸った多くの言葉が音や映像、感情までも伴って染みついている。長い時間もあっと言う間だ。

人生の長い時間は止まっているに等しい。そして、あっと言う間の時間も永遠だ。

気付けば、まだ5月である。


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