猫を抱く


 僕の目に映っている真上にある太陽、気が遠くなるほど先の方まで続いている海岸、ところどころ砂を咬んだ黒い岩、強烈な光はまるで蜃気楼のように頼りない。砂浜で寝そべっている僕の背中には焼けた砂が貼りついていて、柑橘類の絞り汁のようなオレンジ色を帯びた太陽の光が赤と白のストライプのピーチパラソルの上に乗って躍っている。その下で俯せに寝そべって文庫本を読んでいた黒いビキニ姿の女が銀色のビーチマットの上に本を投げ出してから耳にしていたヘッドフォンを面倒くさそうに外す。上半身を起こし、ヒップラインを気にしながら立ち上がり、音もせずにひたすら押し寄せてくる波の方に向かってゆっくりと歩き出す。膝の下まで海水に浸ってから彼女は僕の方を見て笑う。頭の上で丸く束ねられていた髪が無機質に自動制御のロボットのように揺れている。この果てしなく広い海岸には僕と彼女しかいない。僕が手を振ると彼女は僕の方に向かってゆっくりと歩いてきた。僕は慌てて体を起こす。背中にこびりついていた細かい砂が柔らかな潮風にくすぐられてぱらぱらと吹き飛んでいく。彼女の首筋や脇の下を温かい汗が流れ落ち、その滴が脇腹や腰の境目に溜まって、濡れたビキニに吸収される。砂浜の上を歩いている彼女の太股に浮き上がった水滴は、さっき海水に浸かった時にできたものなのだろうと予想できたが、腋の下を流れ落ちている水滴は汗なのか海水なのか僕には判断がつかなかった。そこまでは、心地よい夢だった。確かに電話のベルが聞こえていると知覚している中、妻の声が聞こえ体を揺すられても僕はタオルケットを頭から被り、もう一度、夢の続きを見ようとした。そこからは、夢だということを心のどこかで認識していた。
 夢の中の彼女は僕の隣に腰を降ろすと僕の顔を覗き込むようにして顔を近づけて来た。そして、僕に何か言おうとして唇を微かに開いた。彼女の唇に引かれている痛々しいぐらい真っ赤なルージュが僕の眼に入った。その時、風が吹いた。強い風では無かった。髪の毛を少し震わせる程度の弱々しい風だった。しかし、僕が見たのは細かい砂がその風に舞って吹き飛ぶところだった。一瞬、砂が吹いたように見えた。彼女はその風と共に崩れ去った。
 夢は完全に切れてしまった。夢の中の彼女が砂になって崩れ落ちたのを僕は電話のせいにした。コーヒーのにおいが鼻を刺した。確かにそこは夏の海岸ではなかった。なまくらな返事をした僕の耳に受話器の向こうから聞こえてきたのは耳障りな友人の声だった。瞼の裏側に眩しい夏の海岸の光と彼女の唇に引かれた真っ赤なルージュが残っていた。そのまま寝入ってしまいたかった。死んだんだよ、刺されて死んだんだよ、単調で静かなリズムで友人の声が続き、そして電話が切れた。さっき見た夢と同じぐらいあっけなかった。妻が新聞を持って立っていた。紙面をめくって記事が見えるように僕の方に差し向けた。彼女が死んだ事件の見出しが僕の目に飛び込んできた。太くてかっちりした文字だった。僕が奪い取った新聞には、僕が卒業した高校の制服姿の彼女が映っていた。濃紺のスーツタイプの制服にワインレッドのネクタイ。四角い枠の中で微笑んでいた。友人が好きだった、いや彼女もおそらく友人のことが好きだったに違いない、その彼女。僕の心の中では、悲しさよりむしろ懐かしさが優先していた。そうだった。確かに僕は、その過去の事とも、彼女が異常な恋愛感情から気が狂った男に刺殺されたという事件とも直接関係はないけれども、もしかすると僕自身、その出来事の内部にいるのではないだろうかと考えた。内部にいるのか、外部にいるのか、それがとても重要なことのような気がした。ぼんやりとしている僕の前にいつの間にか置かれているコーヒーカップ。ホット・コーヒーの匂いはそこから匂っていた。テーブルの横に立ってエプロンの脇からスカートのポケットに両手を突っ込んでいる妻が僕の眺めている記事を覗き込んでいた。きれいな人だね、妻は僕の隣に腰を降ろすと自分が手にしていたカップを両手で支えるようにしてコーヒーを口にした。僕は耳を澄ました。アパートの前を流れている小さな用水路のざわめきが聞こえて来た。台所の窓枠からは弱い半透明色の光が微かに差し込んでいて、部屋の埃やテーブルの上に乗っている黒い硝子の灰皿、妻が手にしているコーヒーカップ、流しの横の壁に飾られている赤い花びらを持ったイミテーションの装飾品などを空気の中から浮き上がらせていた。かわいそうだけど、ついてなかったのよ、きっと、確か妻はそう言うと、コーヒーカップをテーブルの上にどすんと置き、立ち上がってテレビのスイッチを入れた。ぱちんと、ゴム風船がつるつるに光った板の上で弾けたような音がして、それまで澄んだ自然の音と光しかなかった部屋に現実的な音が侵入してくる。酔ってたからな、昨日、テレビでやってたのか、僕が新聞記事を妻の方に差し向けようとすると、妻は不思議な光景でも見るように黙って頷いた。テレビの画面にミニスカートをはいて大口を開けて歌っているアイドル歌手が映っていた。友達なんだ、僕がそう言った時ちょうどアパートの前を電車が走って声はかき消されそうになったが、その声は思ったより大きくて自分でも震えていると分かる音質でぐらぐら揺れながら柔らかな部屋の空気の中を漂った。
 知らなかったわ、妻はそう言うと、再びコーヒーカップを手にして顔を近づけ、一口飲んでまたすぐに顔を離した。僕が煙草に火をつけ、怪訝な顔をすると、友達なんかじゃない、そうなんでしょ、妻は視線を上げてまっすぐに僕の顔を見た。彼女の顔は柔らかなオレンジ色の光に包まれていた。僕は彼女の言いたいことの察しがついた。だったら、いいじゃない、ただの同級生で。そう言うと彼女は笑った。実際、その通りかも知れなかった。僕は苦笑して吸い始めたばかりの煙草を白い光が反射して小さな光の点を作っているてかてかした灰皿の中で揉み消す。黒い灰皿の表面には、部屋の天井にぶら下がっている蛍光灯の白くて丸い傘が映っていた。目を上げるとテレビの画面の中のアイドル歌手が喝采を浴びて客席に向かって頭を下げていた。そして、次の瞬間、その横に近寄ってきた司会者の顔が画面いっぱいに映し出された。司会者は口をパクパク開けて卑屈な笑顔を見せた。まるで、ネジ仕掛けの人形のように、小学校の理科の時間に習ったバネの法則みたいに、一定のスピードと長さでその顔は徐々に縮んでいく。だらしなくついた頬の肉を引っ張ってやれば、たちまち伸び切ってしまいそうなぐらい醜悪な顔。僕は立ち上がると不愉快になる寸前に立ちテレビを消した。ぱちぱちと画面の上を静電気が弾け、一瞬、ふわりと画面が浮き上がり、その後その中に吸い込まれるように男の顔が消える。それでも画面の真ん中にまだ小さな点が残っているような気がする。テレビの雑音が消えると、静かな水の流れが聴こえてくる。窓の外を見ようとして、さらさらとした光が眼に入り僕は目をつむった。
 悲しいよね。僕は目を閉じていたためにそう言った妻の顔を見ることができなかった。ただ、その声は僕の瞼の裏側に水に濡れたトマトの表面を思い描かせるぐらい静かで優しい声だった。僕は目を開け妻の顔を見ようとした。心にまっすぐに突き刺さるような妻の顔を見て、僕は自分に疚しいことがあってそれを言い訳するような口ぶりで、どうでもいいと繰り返した。会話の隙間をぬうように蝉が鳴き始めた。妻は満足げに笑っていた。笑いながらコーヒーカップを両手で支えていた。僕は妻の入れたコーヒーを飲む気がしなかった。

 まるでそうすることが自分に与えられた運命なのだと言うふうに僕は眩しい陽差しの中をひたすら歩き続けた。太陽はうんざりするほど遠くて高い位置にあった。歩き続ける度にどうしょうもなく汗が噴き出してきて、カッターシャツの下に着ていた肌着を濡らし続けた。時々車が僕を追い抜いて行った。たいていの車のボディは光に包まれててかてかに輝いていた。まっすぐに伸びていたアスファルトの道路が緩やかに曲がり始め、僕は右手に持っていたスーツのジャケットを左手に持ち替える。しばらくすると、交差点が見えた。交差点の向こうに都市銀行の看板があった。交差点でついさっき僕を追い抜いて行った白いアルファロメオが停止線を跨ぐように停まっていた。助手席に乗っていた髪の長い女がぼんやりと外を眺めていて、透き通るような白い横顔が三分の二ぐらい開いた窓から見えた。不意に僕は死んだ彼女の顔を思い出そうとし、笑った顔しか思い出せないことに気が付き不思議に思った。いや、その記憶は嘘かもしれない。あの時、酔っぱらってアスファルトで寝ていた僕の体を抱き起こしたのは彼女だった。時限爆弾を作って笑っている僕が夢に出てくるからどうにかしてくれと言っていた、あの時の顔は怒っていた。いや、酔っぱらっていて怒るとも笑うとも言えない顔だった。そもそも、遊ぶ約束を忘れてすっぽかした僕の家に電話があって、何してるの、と言われたので、今時限爆弾を作っていて手が離せない、と言ったからだった。そんなもの作るわけがない。ズボンのポケットに突っ込んでいた手が汗ばんでいる。額や頭から吹き出してきた汗が耳の後ろや瞼の上を流れ落ちていた。僕は尻のポケットに手を入れてハンカチを取り出し、それを額にそっと当てる。空を見上げると、青い空が見えると同時に強烈な光が眼に入った。僕は、一瞬、目を閉じ、また視線を落とす。信号が青に変わって、白いアルファロメオが走り出す。助手席の少女は正面を向きシートに身を反り返らせる。少女は髪の毛を掻き上げ、運転している少年の方を見て笑う。口髭を生やし大人の気分を味わっているように見える少年は、ハンドルを握りしめ、正面にまっすぐに伸びているアスファルトの道路をクールな目で見つめながら白い歯を見せる。
 その交差点を右に曲がり駅前の通りに出ると、すぐに今朝電話で話した友人との待ち合わせ場所に着いた。友人はまだ来ていなかった。僕は薄い緑色の金網の前に立って待つことにした。手づかみに右手で持っていたジャケットを左手の腋の下に挟み、カッターシャツのポケットから煙草を一本とマッチを取り出し、煙草を口にくわえてマッチを擦る。ぼっと燃え上がった火で煙草に火を付けると、手首を上下に振って火を消し、黒ずんだマッチの軸をコンクリートの上に落とす。駅のすぐ横に踏切があって、電車が通り過ぎるたびに遮断機が降りた。僕の目の前を通り過ぎて行った車はみんな、その遮断機に引っ掛かって停まった。三度、遮断機が降り、喫っていた煙草をコンクリートの上に捨てた時、道の向こうに友人が立っているのが見えた。彼は顔を横に振って道路の左右を確認し、車と車の間をすり抜けるようにこちらに向かって近付いて来た。困ったような顔をして手を挙げた彼の顔は近づくにつれて笑顔になった。よう、そう彼が言った声に合わせるかのように、小豆色の電車がレールを軋ませて轟音と共に通り過ぎて行った。ぐぉぉん、と言うエンジン音を起てて踏切に引っ掛かっていたシルバーのアメ車が発進した。
 それから、駅の裏側に停めてあった友人の車に乗った僕らはどこに行くともなく彷徨い続けた。日曜日の午後の割には道が空いていてスムーズに車は進んだ。彼はまるで運転することが仕事であるかのように、そのことが罪であるかのように無言で車を走らせた。国道に出て初めて交差点で赤信号に捕まった時、友人は右手で運転席の窓を下げて口にくわえていた煙草を外に放り投げてから言った、たまらないよな。僕は何も答えずにフロントガラスに映し出されている彼の顔を見た。気持ちいいときもそう言った。その時とおんなじ顔がそこに映っていた。死んだ彼女が愛した顔だった。好きだったと言えよ、心の中で反芻した僕の声は声にはならなかった。僕は、前に停まっている車の後部座席の窓硝子越しに顔を押し付けてこちらを見ている、黄色いシャツを着た子供に微笑みかける。僕に微笑みかけられた子供は顔を硝子に押し付けたまま、笑った。屈託のない何の計算もない顔だった。不意に、漠然とした何かが、静かに吹き飛んでいくのを僕は感じた。僕は首をぐるりと一回転させ、肩を二度、三度、上下に揺すって言った。好きだったんだ、彼女のこと。決してふざけているように取られることがないように気を付けて言った。一瞬、真面目な顔をして黙って正面を見ていた友人は、それはすごい、そう言って馬鹿にするように笑った。
 彼女の家は思っていたより落ち着いていた。彼女の親戚の人たちが集まってくる若い連中に淡々と丁寧に接していた。母親は部屋から出てこなかった。父親は5年前に死んでいた。僕らの顔を見て仲間の一人が声をかけて来た。彼女が死んだという事実のために普段より幾分か無口になっていた。僕らは多くの仲間がたむろしている部屋を通り過ぎて少し広めの洋間に入った。洋間の真ん中にグレーのソファーがあった。ソファーの横で彼女と一番仲の良かった女の子が立って泣き続けていた。僕がよう、と声をかけると、女の子は、掠れた声で、こんにちは、と言った。僕が最初にそのソファーに腰を降ろし、友人が続いて座った。泣いている女の子が立っている向う側にどっしりとしたグランドピアノがあった。つるつるに光っている黒い表面には微塵の埃も残されていなかった。いつからこのピアノはここにあるのだろう、と僕は思った。彼女がピアノを弾くという話を聞いたことがなかった。よくこの部屋で遊んだはずだったが、誰かが死んだときの記憶しか思い出せなかった。まだ、信じられないのよ、彼女の叔母だという人がお茶を出しながら確かにそう言った。お茶はよく冷えていた。いつ帰ってくるの、ねぇ、いつ帰ってくるの、ソファーの脇に立ってさっきから泣いてばかりいた女の子が鳴き声の入り混じった鼻にかかるような声で言った。そのあと聞こえた、まだまだ、だよ、警察はあてにならない、お茶を入れてくれた叔母の声が僕の耳に挟まったまま離れない。冷たい感触が喉に蘇るのに、あの時飲んだお茶が麦茶だったのか、その味をどうしても思い出せない。
 僕が座っている右手の大きな窓から庭の様子が見渡せた。会話を避けたくて顔を反らせると、どうしても庭を見しまう。分厚い堅そうな葉っぱで固められた垣根は、よく手入れが行き届いていたし、庭の表面を覆っている緑色の芝生もきれいに刈り込まれていて、どう考えたって死者の到来を待ち受けているような様子はこれっぽっちも感じられない。強烈な光は、鮮やかで柔らかい感じのする緑色の芝生の上に落ちて優しい色になって輝いている。誰かが死んだ夏と同じものを見ていると僕は思った。懐かしい色の芝生は、どこかで誰かが死ぬのを待ち受けていて、その底で静かに牙をむいている。友人が僕の方をまっすぐにじっと見ていた。なんだよ、僕がそう言うと、彼は何か言おうとしてやめた。目の前で、彼女の叔父だと言う人が額から吹き出した汗をハンカチで拭っていた。彼女の叔父だと言われても何かピンと来ない。友人にしきりに話しかけている。僕はそのパクパクとした口元しか感じることができない。突然、ううっと押し殺したような嗚咽を上げて、ソファーの脇に立っていた女の子がその場にうずくまる。彼女の叔母が彼女の背中に手を回す。友人の様子がおかしいと思った。どうした、僕は彼の耳元で囁くように小声で言った。彼は何も答えなかった。彼は左手の親指を目と眉の間に当て、ごしごしとそこを擦った。
 彼女の遺体が戻ってくるまでの間、僕らは彼女の家の近くにある喫茶店で時間を潰した。彼女の家の裏を流れる川がその喫茶店の窓から見渡せた。その川が僕の家まで続いていると言うことをその時僕は気持ちが悪いぐらい不思議に思った。その小さな川は僕らが住んでいる街を優しく包み込むように彩っていた。川がと言うより、むしろ川べりの松並木とその間に一定間隔を置いて埋め込まれた桜の木がそうさせていた。昼も夜も、死やその他の恐怖と言ったものを全く感じさせない美しさがあった。僕は普段その川を誇りに思い、そして今は不思議に思った。何を考えている?と友人が真面目な顔をして言ったので、僕は煙たく感じて、彼女のことを考えていたと真面目な顔をして嘘を言った。今日の朝、夢に出て来たんだ、最初は海岸で手を振っていたんだけど、目が覚める前に砂になって消えてしまった、僕はすらすら嘘がつける自分に陶酔した。あれは確かに彼女だ、そんな気さえした。友人は明らかに不満足な顔でコーヒーを口にする。真っ赤なルージュが僕の脳裏に蘇った。彼女は決してあんなルージュは引かない。
 風に飛ばされたんだ、きっと。僕はもう一度何かを確かめるように言った。へぇ、まるで砂の肖像画みたいだな、そう言いながら、僕の話を打ち消すように窓の外を指さした。川の土手に黒い背広を着た仲間たちがたむろしていた。黒い塊はとても生きた生身の人間がそれも未来のある青年が川のきれいな水のそばで息づいているとは思えなかった。巨大な烏、狡くて悲しい巨大な烏が僕や彼のそばに忍び寄ってきていると言う気がした。あいつら、わかっちゃいないんだ、友人が言った。どこにもぶつけようもない怒りを含んだ悲しい目をしていた。いいよ、もう、僕はアイスコーヒーを飲み干すと伝票を持って立ち上がった。友人が言おうとしたことを考えようとした。そして、僕自身、何もわかっていないことに気が付いた。喫茶店を出て、川を渡している橋を歩いている時、前を歩いていた友人が急に振り返って、エリートの友達を大事にしたいよ、でもお前はいい奴さ、とわけの分からないことを言った。いい奴じゃなくてハンサムだと言えよ、と僕は言い返した。友人は笑っていた。ナンパは上手かったよ、だけど葬式には向いていない、そう言うと友人は半身で肩を怒らせながら歩き続ける。あいつらは違うな、葬式の時にはちゃんと葬式の顔になってやがる。友人はそこまで言うと黙ってしまった。彼女の家がすぐそこに見えていた。
 僕らは彼女の家の前で彼女の遺体が戻ってくるのを待っていた。多くの人が外で待っていた。何度か仲間に声を掛けられ話し込んだ。そのたびに心が傷んだ。友人が言うように葬式向きの会話ができずにすぐに黙ってしまった。小一時間も我慢ができなかったと思う。僕は足の痺れに耐え切れなくなりガードレールに尻を乗せた。テレビカメラが何度か差し向けられ、報道陣に何度も話しかけられたが、自分の未熟さを思い彼らを無視した。そうすることでしか、自分をごまかすことが出来なかった。
 棺は、もう二、三十分も前にこちらに向かっているそうです、と言う大きな声がテレビカメラを持った人のいる人だかりの中から聞こえて来た。僕も含め、僕たちを取り巻く周囲が急に騒めき始めた。それから、何分ぐらい経ったのだろう、その間どうやって息をしていたのか思い出せない。友人が僕の肩を掴んで言った、来たぞ。その声に合わせるかのようにテレビカメラを抱えた人たちがバズーカ砲を抱えた兵士のようにすごい勢いで渦の中に向かって動き始めた。黒っぽい車から運び出された棺は、群衆の中を突っ切って、カメラのフラッシュを浴びながら門の中に入って行った。僕と友人は、その時になってその日初めて彼女の母親を見た。泣き叫ぶ母親の声は、騒然としている人だかりの中で一際目立って夏の空にこだました。さっき、幸せが薄い、と言う言葉を友人が使っていたのを思い出した。簡単で安易な言葉だな、と思った。友人は僕の肩をずっとつかんだままだった。彼は毅然とした顔で少しくぐもった声で言った、行くぞ。
 友人は僕に先立って人ごみを突っ切るように進み家の中に入って行った。二階へ通じる階段の途中でさっきの女の子が蹲って泣いていた。彼女が戻ってきた家の中は、雷のように泣く女の子や自分の殻に籠ったまま立ち上がれそうにない泣き方をしている女の子がいて、哀しみの渦そのものだった。同じ悲しみをこの家の中の人間全部で共有している。僕はそう思った。自分もその一人だと思いたかった。僕は、人ごみを掻き分け猛烈な勢いで進んでいく友人に着いて行けなくなって立ち止まった。立っているのが精いっぱいのスペースだった。そこでしばらくじっとしていた。目をつむって彼女の死に顔を想像した。気が付くと友人が目の前にいて、だめだよ、俺、おまえもな、最後だからな、そう言うと、笑うとも泣くともつかぬ顔で家の外に向かって凄い勢いで出て行った。
 僕はその場に取り残された。友人から取り残されたことは、僕にとって取るに足らないことのように思えたけれども、何故か、その事が僕にとっても死んだ彼女にとってもささやかな感情の問題を含んでいるような気がした。僕は、その事の説明がつかないまま、彼女が眠っている部屋に向かった。
 途中、何人かの男とすれ違い、何人かの女と口を聞いた。かのじょ、わたしが話しかけても何もいわないんだよぉ、哀しい女の声が僕の耳の奥にするすると滑り込んでいって、再び僕の足を竦ませた。狡いよ、何か言ってって言ったのぉ、鼻にかかった涙声が続いたが、僕の記憶に残っているのは、そのふたことだけだった。それ以上、僕は周囲の声を聴くことは出来なかった。僕は殆ど無意識のうちに人を掻き分けて進み始めていた。実際、その後も誰と何を喋ったのか、何度思い出そうとしても思い出せない。
 彼女は、色白の、透き通るような顔で棺の中に横たわっていた。僕は彼女を見た時すべてを理解した。彼女はうっすらと瞼を開いていた。そこから覗ける黒い瞳が微かに光っていた。半分開いた唇には真っ赤なルージュが引かれてあった。毒々しい色のその隙間から、白い歯が毀れ、彼女が何か言おうとしているのではないかというような生々しさが伝わってきた。部屋の中に午後の光が入り込んでいて、棺の下敷きになっている白い紙をさらさらとした黄色に染め上げていた。僕は、硬くてぎざぎざのある緑色の葉っぱで、コップの水に注がれていた水を掬い取り、彼女の唇にそっとその葉先を当てて滴を落とした。水滴は赤いルージュの上でぴたりと静止し、それ以上動かなかった。僕は、手にしていた葉っぱを元の位置に戻し、立ち上がった。コップの中の水の表面が僕を引き留めるように揺れ続けていた。振り返ってもう一度顔を見た時、彼女の唇の上で動いて止まったまま動かなかった水滴が、何かに押し出されるように彼女の口の中に吸い込まれていった。僕の指先にぎざぎざの硬い感触が残った。

 僕は友人の車で彼の家に向かった。助手席に座った僕は指先を見つめながら、そこに残っているほのかな感触を思った。それが何なのか、僕はもう知っていた。カーブに差し掛かるたびに、車内が揺れ、そして僕の指先もゆれた。それを庇うようにして僕はシートに蹲った。友人が一度だけちらりと僕を見た。友人はそんな僕の姿を見て何かを感じ取ったのか、余計にハンドルを乱暴に切った。
 家に戻った友人は通夜に行くのが嫌だと言って母親に笑われた。そのうち、ビール、ウイスキーを大量に飲み、そこに行くのは無理だろうという状態になってしまった。僕の前で飲んでいた高校の教諭が、彼女からの手紙にウェディングベルを鳴らした友人がうにゃうにゃと書いていた、と言う話をしていた。それはどう考えても僕のことだった。友人と教諭は酒が足りないと友人の母親に絡んでいた。僕は両手をポケットに突っ込んで、あの感触を反芻していた。トイレに行って手を洗うのが嫌で何も飲まなかった。二人が酔いつぶれた頃、僕は立ち上がり、帰りますと言って玄関に向かった。追いかけて来た友人の父親が車で送ると言うのを断って外に出た。
 外は暗くなっていて闇に包まれていた。僕は友人の家から続いている山沿いの県道を歩きながら、ポケットから手を出し、もう一度ぎざぎざの硬い感触が残っている指を見つめた。夜風が微かに顔を掠め、ガードレールの向こう側に広がる藪の中から羽虫の鳴き声が聞こえた。そして、鼻をくすぐる冷えた草の臭いのする風の中で、家に帰れば妻が僕の体に塩を振り、お疲れ様と言って、生きている証のような屈託のない笑顔を見せるだろうと思った。それが幸せだったのかも知れないなと、不意に、ウェディングベルか、と僕は声に出して言ってみた。
 僕がアパートに戻ると飼っていた猫が出迎えてくれた。僕は猫を抱き上げ、お帰りと言う妻に少しだけ困ったような表情を見せてから、出来るだけ優しい笑顔で笑った。妻は予想した通り、僕の体に塩を振った後、上機嫌になって風呂の用意をしに行った。まだ、指先にあの感触が残っていた。僕はそばに寄って甘えてくる猫を寂しさから強く抱きしめた。僕の指先から、ぎざぎざの硬い感触が次第に薄らいで行き、それが愛情と言う柔らかな肉の感触に変わっていった。

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 人の心と言うのは不思議なものだ。記憶が幾重にも折り重なってそれが天国のようにあるいは地獄のように映る。できれば思い出したくもないと思っていることを突然思い出してしまう。心についた痕跡は忘れようとしても完全に消えることはない。おそらく、取り出すのが難しいだけで、記憶はどこかにそのままの状態で保存されている。
 心の研究を意識するようになって、日増しにその不思議さが募ってくる。分かったようでわからない。それは、解けるわけがない、永遠に解けない問題なかも知れない。
 人は生きる、人は死ぬ。なぜ、今、生きなければならないのか。人のゴールは死である、と私は感じる。ならば、そのまどろっこしいルートをなぜ辿るのか。そのまどろっこしい押し引きに、有機体が無機体に戻ろうとするエネルギーと有機体が新たな有機体を繋ごうとするエネルギーの綱引きがあるように思える。心の源泉はこの綱引きから起こる。私たちは、その状態を想像することすらできない。想像は単なる生理現象である。いや、正確に言うと生理現象だとすら感じることができない、操られた生理現象である。ふとした瞬間、感じたわけではなく感じていること、例えば、三島由紀夫の「潮騒」のラストシーンで、子供を水難で失った親が何を求めて何を待って砂浜にいるのか。そこで待っているものだけが知っている、死への親和感。
 私もおそらく死ぬために生きている。それは間違いない。心の源泉の綱引きから言っても、既に有機体は繋いだし、もう役割は終わったはずだ。だからと言って明日死のうとは思わない。生きているうちになぜ生きるのかを知りたいからだ。いや、その答えは分かっている。分かっているが知らないだけだ。私の生きる目的は、その答えを知ることである。知らないほうが幸せということもあるかも知れない。でも、知りたい。多分、そこだろう。今生きているのは。
 少し前に新聞のコラムである哲学者が「わかる」とはどういうことかを論じていた。その中で数学者の岡潔の言葉を引用していた。感情を抜きにして数学は成り立たたず、時間は情緒に近いと言う。単純なモデルを使えば世の中の事象を分かったふうに理解できたような気になる。世の中の事象も心に起きることも複雑な概念の積み重ねだ。「理性と言うのは、対立的、機械的に働かすことしかできないし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかしない。(中略)ところが知らないものを知るには飛躍的にしかわからない、だから知るためには捨てよ・・・理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない」岡潔が理性の限界を説いていることを哲学者は引用し、「自分の力で考えることを教えるのではなく、自分の力で考えることの限界を教えるのが真の教育」だと述べていた。要するに、ごちゃごちゃ小理屈を並べずに、自転車に乗れ、ということらしい。
 私がこう言ったからと言って、自分の力で考えることをやめてはいけない。理性だけで概念を積み重ねて学習し続けると、「あたりまえ」な「常識」に支配されるようになる。その限界に気づかなくなる。常にそれを疑うこと、心の視点で人間らしく考えることが大切なのである。限界があるということさえ知っていればいい。分からないと感じた時、問題を分解すること、書くと言うこと、声に出して言葉にするということの有効性は変わらない。分からないことには必ず何かの教えがあるはずだ。もし、考え疲れて壁に当たっても、決して不安を覚えずに、その壁に感謝すればいい。自分は運がいいと。おそらく、その壁の向こうに答えがあるはずだと。最近、周囲の人や環境をやたら気にして不安を感じている人を目にする。日本人特有のおもてなし気質から来る病気なのだろうか。そうとも思えないが、少なくともおもてなしは、こちらが不安を持っている状態では行えない、相手を読み切って相手より遥かに広い大きな心を持った神のような人にしか行えない。自分以外の人のことが一体どれほど分かると言うのか。殆どの人は本音を言わずペルソナしか見せないし、それを受け取った人の感じ方だって多分ばらばらで読めるわけがない。こう言う努力は時間の無駄、徒労で終わる。自分が持っている他人像なんかとっとと捨ててしまえ。病魔は自分の心の中にある、否定すべきは自分である、主張すべきも自分である。心に訴えるものは何なのか、本当の価値は何なのか、そこに執着してほしい。少しだけ、ものの見方を変えるだけで世界はぐんと広がる。放心状態のような感じになっても、心を静かに保ち、何となく考え続けるとよい。しばらくすると脳は、いや心は勝手に働いてくれる。そうなれば、後は壁を壊してくれる偶然の機会を待つだけだ。
 もう一つ、岡潔の言う、時間が情緒的だと言うのは本当だ、と私も感じている。同じ長さの時間でも情緒的な深さがある。人生の時間なんて限られている。起きていられる時間は皆そんなに変わらない。睡眠を減らして時間を増やすのではなく、同じ時間を如何に深く使うのか、それを意識するだけで生きる意味が変わってくる。
 さて、小説の中に「幸せ」と言う言葉が二度出てくる。あとがきでも、既に「幸せ」と言う言葉を使った。R&Dのメッセージにも「幸せ」とは感じるものだ、と言う言い回しが出てくる。では、「幸せ」とは一体何なのだろうか?R&Dのメッセージに書かれている中に何となく答えはあるのだが、皆ちゃんと解釈できているのだろうか。多くの人の「幸せ」はモノに対する欲求である。メッセージでは、コト、と言う表現を使って新たな「幸せ」を定義し、我々がそれを研究として追及する立てつけになっている。もし、この「コト」が数式で定義できるとすると、その「コト」は私の言う「幸せ」には当たらない。例えば、「モノ」に対する情緒や感情を物質的なベネフィットの式に加えてそれを最大化する関数が「コト」だと言い切ることもできるだろう。しかし、これは詭弁としか言いようのない「幸せ」の定義である。それでは、所詮「コト」は物欲だ、と言うことになるからである。株鬼と呼ばれている人が昔私に教えてくれたことがある。生きる意味を簡単に失える方法だ。それは、金銭や物欲を人生の目的にすることだと言う。そして、愛、絆、少しばかりの銭、と言う順序を教えてくれた。この順序を間違えちゃいけねぇ、とも言った。最初はその意味が分からなかった。私のゴールがお金や報酬、物欲になっていたからである。分からないのなら、儲けた金は全部無駄に使っちゃえ、博打の神様はアホが好き、そうも言われた。それは簡単に実践できた。まるでアホみたいだった。それから、そのことをずっと心の奥底で考えながら遊び半分の人生を送っていると、ある日突然、その意味が嘘みたいに分かった。え、何だろう、私は、愛、絆、少しばかりの銭、とノートに縦に並べて書いてみた。やっぱり、その順番だった。どう考えても、その順番は変わりそうになかった。私は、「愛」の横に「絶対真理、自分の心の中に誰もが持つもの」、絆の横に「相対真理、自分と他者との関係の中で生まれるもの、社会的な心」、「少しばかりの銭」の横に「愛と絆のために必要な量だけが価値がある」と書いた。自分の中でぴったり来た。それが今も私が持ち続けている答えである。「幸せ」の価値を決めるのは自分の心である。真摯に目の前の仕事に取組み、自分に訪れる問題の壁に感謝し、そうやって生きることでしか「幸せ」は得られない。
 愛だけが唯一の真理である、と多くの哲学者が言う。自然科学で証明されたという答えには、すべてに適応する普遍性がない。ただの、部分である。複雑な世の中全体から見れば、ただの仮説にしか過ぎない。私は着実に答えに近づいている、と感じる。分かっているが、まだ、知らない。何のために、突然沸き起こったずっと昔の記憶を書き綴ろうとするのか分からない。分からないこと、知らないことから逃げるわけにはいかない。目の前に何か漠然とした愛がある。ずっと過去から続いている私の連続した意識がそれを感じようとしている。

 こんな長い話に最後まで付き合ってくださった方、ありがとうございます。


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