意識の情報量


 

”我々の目の前にある「宇宙」という名前の巨大な書物には、この世界の成り立ちと世界の仕組みについて書かれている。しかし、その書物を読み解くためには、そこで使われている文字を解読し、そこで使われている言語、すなわち数学を理解しなければならない”
― ガリレオ・ガリレイ「偽金識官」(1623)

     クリストフ・コッホが書いた「意識をめぐる冒険」の第8章は圧巻だ。ガリレオ・ガリレイの言葉を引用して始まる。意識現象を科学の言葉で説明しようという研究者人生を賭けた強い意志が伝わってくる。そして、その強い意志だけではなく、とても合理的なアイデアを含んでいる。フランシス・クリックと彼は長い蜜月の中で意識の本質を捉えるという課題に取り組んでいた。意識と脳の問題はデカルトやスピノザの時代から続く大きな問題ではあるものの、ごく最近までまともな科学の世界で取り沙汰できるものではなかった。例えば、現在の科学で証明されている脳や意識のメカニズムをあなたが知っていて、脳のある部位の名称を使って心の問題を整然と語ったとしよう。それにさも分かったかのように頷く聴衆もいるだろう。だが、それはデカルトが「脳の松果体が魂の座であり意識を生みだす」といったのとさして変わらないのではないだろうか。確かに現在の我々は知り得た知識の量がデカルトやスピノザの時代とは大きく違っていてそれを知っているインテリ連中には美しく響くかも知れない。然しながら、クオリアも動物精気も信じるか信じないかの話であるという意味では何も変わりはないのだ。コッホはその疑問に対して、NCC(意識と相関する神経活動)を見つけるべく地道に前進するべきなのだ、と答えている。
     少し話を変えよう。V.S.ラマチャンドランも「脳の中の幽霊」の中で似たような答えを返しているが、彼が言おうとした何か小さく見える試行錯誤には深い意味がある。科学には順番があるのだ。脳科学はまだ体系化できるほど進んでいるわけではなく、脳科学のアインシュタインはまだ先の話だというわけだ。今やるべきことは、小さな道具を手に取り発想すること、いや、発想した結果として小さな道具がいるかも知れないということだ。fMRIに代表される脳のイメージング装置は確かに研究を前には進めてくれる。しかし、それありき、という考えは若い脳の無駄使いだ。そのようなツールの延長線上でしか発想できなくなったとき、自己の利益のみにその先の人生を食いつぶされ、成し遂げなければならなかった大いなる人類の利益を失う可能性だってある。ガリレオ・ガリレイは望遠鏡を創ったわけではない。望遠鏡は単に2枚のレンズを組み合わせると遠くのものが近くに見えるという当時のはやりの子供のおもちゃだった。その子供のおもちゃをガリレオは空に向けた。人の動きや物の動きを見て楽しんでいたおもちゃを人とは違うところ、天空に向けた。そこからあっという間に数々の発見と仮説が生まれた。道具を取り上げると今の若者は困ってしまうかも知れない。PC,インターネットなしですか?脳を研究している医学部の学生はこう言うかも知れない、脳のイメージング装置なしですか?何もないところからしか何かは生まれないとラマチャンドランは言っている気がする。そこにこそ、生きた発想が生まれる、脳科学においてはまだ今はそういう時代なのだと。自分自身の脳こそが最高の道具だと。

     さて、本題に戻ろう、「意識」の話だ。我々の感じる「意識」はなぜ生まれるのだろうか?なぜ、が分からないとしても、それは定量的に測れるものなのであろうか?
     意識が「創発的に」生まれるものであるのかについてコッホは論じている。そこの説明はやたら長いが、そんなに長い説明は不要だと私は思っている。歴史上の賢人たちは、得体の知れないものにロマンチックな名前を付けたがる。あるいは、曖昧な形容表現を用いる。要するによく分かっていないからだ。アリストテレスは「エレンキー」、ショーペンハウアーは「現象的な意思」が「生気的な」力の存在、つまり生命だそうだ。彼らがDNAを構成する4種類のヌクレオチドからなる塩基配列が生命の鍵だと知っていたらその言葉を使ったであろうか?
     「創発」なんてあり得ない、というのが私の考えだ。そして、長い説明も要らない。意識が「創発的に」どこかのレベルで発生する、ゼロであったものが突然生まれてくるということはあり得ない。ゼロからは何も生まれない。ゼロは何を掛けてもゼロじゃないか。「創発」なんて言葉、どこかインチキくさい。
     コッホは著書の中で、ライプニッツの「汎心論」を引いている。「汎心論」の核にあるのは「モナド」と呼ばれる最小単位である。宇宙を支配する究極の基本単位の1つとして意識を位置付けたわけだ。「モナド」より小さい物質的な基盤はないと考え、「意識は何らかのシステムの特性だ」というのが終点で、これ以上還元主義では先に進めないということにする。つまり、「相互作用する部分から成り立つシステムがあれば、ある程度の意識を持つ」という法則がこの宇宙を支配していることになり、意識の程度が大きくなればなるほど、また、高度にネットワーク化されればされるほど、意識の程度はより大きく、より洗練されたものになるという。この発想が実に面白い。
     ブログを書きながら感じ始めていることがある。ここから先のすべての仮定をこの紙面で書き連ねることは不可能だ。大きく中略しなければならない。そのことで私の書きたいことが伝わらない人も出てくるだろう。もしそうだとすれば申し訳ないが、この先は、ただ、誰かに伝わればいい、という思いで書き進めたい。そもそも、このブログのタイトルを覚えておいでだろうか?そう、「意識の情報量」である。

     「意識」は測定できるものでなければならない、と私も思っている。数値化できるということだ。少なくとも、その方法論、科学的根拠に基づいた理屈があってこそ、「心の理論」や「心のデザイン」が完成するのだと考えているからだ。紹介しているコッホの著作の第8章はそれを可能にするような示唆を含んでいると感じた。その可能性を感じた示唆、いたって単純でとても重要なアイデアは、ジュリオ・トノーニの「意識の総合情報理論」である。
     ある一瞬の主観的な経験である意識の内容が含んでいる情報量は、その内容のレパートリーの豊富さであり、ユニークさである。ユニークであるということは、同じ一瞬に経験する可能性のある膨大な量の可能性(その一瞬に経験したかも知れない視覚、聴覚。匂い、その想像など他のすべての可能性のある出来事を暗黙のうちに)を除外するという意味になる。これが情報量理論でいう「膨大な情報量」という概念になる。「不確実性(エントロピー)の減少」こそがクロード・シャノンによって定義された「情報」であり、一瞬一瞬の意識経験は、膨大な可能性を除外するという意味で「膨大な情報量」なのである。
     また、意識はひとまとまりであり、統一して経験される。それは脳内の関連しあう部分どうしが非常に複雑に相互作用し合い、一つの大きな皮質-視床複合体をつくっているからだ。この連絡が断たれると意識は失われてしまう。麻薬薬による意識の低下、深い睡眠などはまさにその状態である。これら2つのシステムの特徴を考えると、「意識を持つシステムは、システムの状態に多様な情報があり、かつ、その情報が一つに統合されている」ということになる。これがジュリオ・トノーニの「統合情報理論」の起点である。「あるシステムが統合する『意識のレベル』は、システムが全体として生み出す情報から、システムの構成部分が生み出す情報量を差し引いたものに等しい」という考えだ。この「意識レベル」をΦ(単位はビットだそうだ)として定義し、
     (1) そのシステムの構成部分それぞれが独立に生み出す情報量の合計
     (2) システムが全体として生み出す情報量
     とすると、
     Φ=(2)-(1)で表せる、と彼は考えている。
     これのどこか素晴らしいかというと、Φが大きければ意識レベルは高くなり、完全な無意識であればΦはゼロになるというように、定量的にそのシステムの意識レベルを表現することができるところだ。私のパソコンに入っている情報のΦはゼロ、すなわち、完全な無意識ということになる。そして、これらの定義から、「統合情報はシステム内における因果的な相互作用から生じるため、そのような相互作用の『可能性』が失われるだけで、たとえシステムの実際の状態が変化せずともΦは縮小し、意識内容に変化が見られるはずだ」という予測が成り立つ。この意味がお分かりだろうか?『可能性』が失われるというところが重要なポイントである。音に集中していて視覚ニューロンが発火しないのと深い眠りの状態にあって発火しないのとでは『可能性』が違うのだ。前者は発火できるけど発火しない、後者はそもそも発火できないのだ。
     既に気付いている方もおられると思うが、このアイデアは素晴らしいが実際にΦを算出するのは困難だ。Φを計算するためには、システムをありとあらゆる方法で分割し、すべての分割方法の中でΦを最小にするような分割の方法を見つけなければならないからだ。全体を部分に割る時、部分どうしが完全に独立であるためにはΦはゼロでなければならず、間違った分割をするとΦの値が大きく見積もられてしまうからだ。ある課題を解くための情報量を最大にするために連続値を離散化する問題のようなものだ。この分割試行総数はベル数と呼ばれる莫大な数になる。人間の脳は進化の過程でΦを大きくするような構造に書き換えられていったとも考えられる。脳内のニューロンどうしの結びつき方は、Φを高めるような規則になっているように思える。意識を生み出していると考えられる大脳皮質のピラミダル・ニューロン(簡単に言ってしまうと遠い距離のニューロンと連絡が取れる足の長いニューロン)は、近い場所にある他のニューロンと興奮性のシナプスを形成して非常に多くの結びつきを作り、一方で遠い場所にあるニューロンとは少数のシナプスを作る、この状態が数学の世界でいう「スモール・ワールド・グラフ」というネットワークに似ていると考えられ、このような特性を持つネットワークでは、どんなに離れた2個の皮質ニューロンをランダムに取って来ても、数個のシナプスを介せばお互いを繋ぐことができるという。このネットワーク特性はΦを高める方向に働いている。
     しかしながら、Φを低くするような規則でニューロンがつながっている場合もある。いわゆる旧脳系だ。実は大人になってからのニューロン860億個のうち,新脳系、大脳皮質系にあるのはたった160億個だ。つまり、古い部分に殆どのニューロンが集中していることになる。ここにあるニューロンは独立性が高く遠くのニューロンとはあまり相互作用しない。従ってΦは非常に小さい。意識レベルの低い旧脳系に意識レベルの高い新脳系を乗せて進化してきたことが人間の脳のいわゆる二重過程理論を生んでいる。無意識の処理(非常に意識レベルが低い処理、と言っておこう)は迅速、強制的、介入不可能である。そして、意識レベルの処理は意識をひとまとまりのものとして統合し矛盾がないように納得しようとする。この2つの仕組みが人間の行動を決定するのである。
     統合情報理論では、意識の「中身」を捉えることも可能だという。意識の中身のある側面におけるサブシステムが取りうる状態を次元として表現する超次元スペースを彼は「クオリア・スペース」と呼び、コッホはもっと文学的に「クリスタル」と呼んでいる。統合情報理論は、精神(意識の内容、クオリア、クリスタル)と物質(因果的な相互作用を持つネットワーク)という互いに還元できない、宇宙の2つの基本特性の間にある関係性を記述するという。これもまた、空想の域を越えない、現実的に計算不可能な考えではあるが、ロマンチックな何か美しさを感じる魅力的なアイデアであることには間違いない。分からなければ分からないほどロマンは増すものだ。

     人間はよく分からない時、意識にのぼるもの、目に見える事実を何かの原因にしたいものだ。30年ほど前、私の胃潰瘍のレントゲン写真を見ながらある医者が言った「お仕事忙しいのですか、ストレスでしょう、すぐに入院してください」(ちなみに前日救急車で搬送されたときには膵臓だと言っていたが)。私は入院を拒否し、医者は私に誓約書を書かせた。私はそのまま仕事を続け何の治療も受けないまま完治した。ストレスなんかではないことを私が一番よく知っている。誰にでもあるヘリコバスター・ピロリ菌過多のせいだ。今ではその診断が科学的で当時はストレスのせいにするのが科学的だった。鬱とかの精神疾患でもそうだ。自殺した原因をいうときもそうだ。息子が原因不明の頭痛に悩まされたときもそうだった。よく分からなければ、仕事とか環境の変化とか目に見えるもののストレスのせいにするのと都合がいいのだ。私にはその答えは分かりません、といっているようにしか聞こえない。
     今日紹介したアイデアは、意識の情報量を測定するアイデアとしては面白いが、私はΦの値が非常に小さいもの(つまり無意識と言われる状態だ)を相手にする必要があると考えている。そこにあるのは分断された情報だ。それをどう見て行くのか、今明確なアイデアはない。しかしながら、非常に弱いΦがある以上、そこにたどり着くのは可能だと考えている。何でも安易な目に見えるもののせいにして逃げるのはやめよう。その答えはお利口さんではあるが、世の中をちっとも良くしない。誰も幸せにならない。誰かを幸せにするために研究をするのなら、自分は痛い思いをしながら生きなくてはならない、しつこく、いたく生きるべきなのだ。コッホは以下のような言葉を引いていた。その言葉でこのブログを閉じようと思う。

 

“数は、形と思考を支配し、神々と精霊たちの源である”
― ピタゴラス

参考文献:
「意識をめぐる冒険」クリストフ・コッホ
「脳の中の幽霊」V.S.ラマチャンドラン


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