君と歩いた道


 
 私は書いていた。
 いや、私は歩いていた。

自分の足にまとわりつく赤い波を感じて
そこが五色の貝々が散りばめられた竜宮の海だと。
砂陣のなか、輝く涙を夕暮れが包むと。
赤くにじんだ空気を密やかに盗もうと小声でささめきあう泥棒がいると。
厳しい冬の海に戦いを挑む曲がったロイヤリティーの兵士がいると。
そして、すべてがその哀しみに洗われると。

 たかが、37年前。そこに何があって、その時、私は何を見ていたのか?
 どんな叫び、どんな訴え、もしかすると、どんな死?
 そう書いていた私の心の上に。

莫大な時の雪、冷たくて刹那に刺激的ですぐに忘れる。
そんな白い粉末がどれだけ降り積もっただろう。
私の足元にまとわりついていた海は、いつしか黒々とした空に包まれる。
いや、それは幻想だった。
私が見たのは、本当はこうだ。
その海は白々とした夕焼けに赤く冴え、
戦う力も哀しみの涙も、
何よりも絶大であった声を失い、
過去という闇の空間に吸い込まれて消えてなくなる。

 私は、確かに、ノートにそう記していた。随分昔の話だ。それを見ても、もう懐かしさすら込み上げてこない。ひらすら、疑問だけが残る。まるで別の人格が私の中にいて、少年であった私を動かしているかのようだ。私はそう記した時の私の心を全く覚えていないし、想像もできない。つまり、連続性と一貫性がない。連続性と一貫性があることを意識というなら、私には私という人格の意識がないことになる。細切れにしか、つながっていないのだから。あの頃の心、何を感じてどんなことを考えて生きていたのか、全く思い出せない。
 でも、詩は語る。
 声を失っているということを語ってくれる。それは、きっと辛いことだったんだろうね。きっとね。と。

 意識の連続を遮断するだけの長い時間。その時間の凄さを今の私は知っている。忘却できるのに充分な時間にしか何の力もないことを私は知っている。それが時間の力だ。

 そういえば、多分その同じ海で、君は私に何か大切なことを伝えたかったのかも知れない。あの時、私は大学卒業する頃で君は中学生だったかな。君が伝えたかったことを君が伝えたかも知れないことを私は覚えていない。過去の記憶はよく塗り替えられる。覚えていないことも悪くはない。十数年前、長い期間をおいて会うことになって、あの時は意識の非連続性を感じたよ。私自身の私という主観は変わらないけど、君への客観性は不連続だった。君は大人だったから。私の知っている君は子供だった。
 死んだ姉さんの話をして、心に違和感が生まれて、お酒を飲んで、また飲んで。気が付いたら私の目の前には大人が座っていたんだ。子供だった人が大人に見える瞬間ってわかる?それから、大人に見えたり子供に見えたりした。結局、どっちか分からなかった。でも、それは、私の主観。それから、真夜中に二人で酔っ払って過去のエビデンスを探すために海に向かってひたすら歩いたよね。長かった。酔っ払っているとはいえ。

 でも、探していた海はもう無かった。海があった場所は埋め立てられて、まだ先までマンションが見えていた。その探しているエビデンスは、そもそも君のものだった。だけど、それは、その日のうちに、そのエビデンスを覚えていない私のものでもあるような錯覚と共感が生まれていた。だからかな、私はあの時、無性に腹が立った。そして、無性に哀しくて、君を抱きしめたくなった。君を抱きしめたくなったのは、きっとあの薄っぺらなマンションのせいだ。多分、そこに昔通りの海があったら、私はそんな気持ちにはならなかっただろう。だろう?
いや、気持ちがあの時と分離していてよくわからないけど、今でも漠然とした切り抜き絵みたいに意識に残っていて、あの時のことを思い出したら、軽やかに情動が反応する。そう、思い出せるということだ。それは心に蓋ができて、しっかりと収まったことを意味する。
人は変わっていく。私は、毎日学び、明日起きたら別人だ。意識の一貫性は、かろうじてある。その一貫性は長い時間は保てない。

 つまりこういうことだ。

私も君も今に生きている。私も君も今生きている。

 最近ね、なぜだか、早く死にたいと思わなくなった。
 現実は、ちっとも楽しいことなんかないのにね。
 だから、やっぱり、未来は変えられるんじゃないかな。


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