ルージュのキャップ


通勤電車の真向かいに座った色の白い女性。

バッグからルージュを取り出して、

コンパクトに向かいながら格闘を始めた。

あれ、目が合っちゃった、

僕は静かに目を閉じる。

可愛い女性だな、そう思って見ていたのは嘘じゃない。

少し気になって、目を開けると、

ルージュのキャップが飛んできた。

からん、ころん。

ツルツルの通勤電車の床を跳ねるように。

うまい具合に転がって。

キャップを飛ばしたお姉さんは、

あっ、

大きなお口を開けて僕と目が合った。

僕は、油断してだらっとシートに座っていたはずなのに、

身体は正直に反応した。

左手を伸ばして、はじきそうになって。

右手も伸ばした。

あっ、

知らない間に僕は立ち上がって腰を浮かして。

ゴロを取るみたいに、右手で被せて。

ルージュのキャップは僕の手におさまった。

僕は完全に内野手だった。

下半身の形ができていた。

掌に収めた銀色のキャップ、両指開いて見せた時、

可愛らしいマニュキュアで彩られた爪が伸びて来た。

白くて華奢な指先だった。

僕と目が合ったお姉さんは、

とても素敵な笑顔で、キラキラした目で有難うと言った。

落ち着いたシャドウ、そこから静かな香りが出ていた。

塗りたての、ぷっくりとした唇から、

とても正直な白い歯が毀れていた。

僕たちは生きているのだな、と思った。

その人が誰なのか、私は知らない。朝はそうやって始まるものだ。それで、目が覚める。寝ボケ眼で通勤し、何かのきっかけがあって目が覚める。朝の時間はすごくゆっくりと、でも、もの凄いスピードで過ぎ去っていく。その言葉は、朝の忙しさの特徴に象徴されているように感じられるが、何も朝だけに限らない。昼には緩慢がある、夜には油断がある。朝、という時間の深さ、昼、という時間の寂しさ、夜、という時間の狂気、そして、そこに棲む魔物、私を取り囲んでいる静寂、平穏、反復的日常、限りなく不安に近い平和や親しさ、優しさと言う魔物、当たり前な時間の過ごし方を私たちはもう一度見直す必要があるのではないだろうか。時間を毎日変化に富んだ情緒で満たさなくてはならない。生きる時間は限られている。毎日、同じことを成長なく繰り返しても意味はない。意味のない反復は悪魔の至福であり、罪である。変化は、自分の心を変えなければ起こらない。変えない人には、まったく同じではない、今日と同じような明日が来るだけである。

左手で足らんかったら、

右手も使え。両手を使え。

それでも足らんかったら、

両足使え。

身体じゅう使え。

頭は後で使え。

これは、私にゴロの取り方を教えたある大人の言葉で、論理的にも順序も無茶苦茶であるが、私は好きだ。野球のコーチは大抵、足で取れ、という。足で撃てという。足で取れるわけがない、サッカー選手じゃあるまいし。そして、考えろ、という。考えても何も出てこない。そもそも、何を考えるのかを考え始める。そう、だから、それは、ガキにはその時点で分からない。そのうち、わかる奴はわかるのだが。

ある意味、とてもシンプルな、このおっちゃんの檄とも言えるこの言葉が私は今でも好きだ。特に、頭を使うのは最後でいい、それが最も素敵な財産だった。この反復には意味がある、今でも私はそう思う。

そんな素敵な財産を、大人になるに連れて忘れていったのだろうか。私は気づかぬうちに、頭を先に使うようになっていた。体を使っていたのは、左手の小手先なのだ。これじゃだめだろう。それで、やる前にできない理由を探していたとすると最悪である。まだ、大切な心は何も使っていないのに。

頭は何もしない。するのは、身体である。おっちゃんはそれを知っていた。ゴロは全部とれない。でも、ボールが来たら反応する。それが私の仕事だから。同じゴロは二度と来ない。失敗か成功か判断する暇なんかない。失敗も大きな力になる。無意識の世界で。ボールが来たら、私たちには、ボールを取りにいくか、諦めるか、その判断しかない。諦めるはないだろう。ただ、反応するだけ。それでいい。頭は後で使うものだ。それが変化をするための、もっとも効果的な意味のある反復である。


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