ピーマンと遊ぶ夢


僕はね、ピーマンと遊ぶ夢見たよ、4歳の次男が言った。お兄ちゃんはね、ピーマンが嫌いで食べなかったから、ママに怒られていたよ。長男が少しきつくて哀しみを含んだ眼で次男を睨んだ。その長男の眼に反応した次男が少し怯えたような眼で私の顔を窺った。あの時、すぐにあの二つの眼の意味が咄嗟に理解できなかった。私は笑いながら次男の頭にそっと手を置いた。とても優しい感触だった。私の掌には、幼くて小さな頭の形と柔らかい猫のような髪の毛の感触が残っていた。なのに、掌から伝わってくるそれは、胸の奥を針で突いたようなちくちくとした痛みを伴っていた。

私とはうまくいかなくなって離別した彼らの母親に数日間二人の兄弟を預けた後のことだ。疲れ切って戻ってきた二人の兄弟はマンションの玄関先の階段の踊り場で仲良く並んで大の字になって寝ていた。長男が鍵を無くして家に入れなかったらしい。その時のその二人の寝顔は今思い出しても可愛らしさと胸の痛みが同居している奇妙な感覚だ。私は、飲んでいた焼酎の残りを一気に喉の奥に流し込んで風呂に入った。

風呂から上がった私は、分けのわからない心の高ぶりを感じて長男を探していた。長男は見当たらなかった。そして、次男に長男の居場所を尋ねた。私の方を振り向きもしなかった次男はテレビの画面に熱中したまま、ケラケラ笑いながら知らないと答えた。そう答えたその声はとても甘ったるくて、まるで女の子のような声だった。ようやく探し当てた長男はベランダで膝を抱えて蹲っていた。私が近寄って覗き込むと蹲って泣いていた。どうしたん、私は長男の肩を抱いた。○○(弟の名前)はね、本当はママに甘えたかったの、でもね、最初の日にママが晩御飯作っているときに、甘えようと思って××ちゃん(その時付き合っていた私の彼女)って言いながらエプロンの端を引っ張ったんだ、そしたらママが振り向いて、少し怖い顔して、私は××ちゃんじゃないよって。それから、ママの家にいる間ずっと黙ってた。ずっとだよ。そう言うと長男はボロボロ泣いた。ほんとはね、ほんとはね、もういっかい、もういっかい、そう言いながら泣きじゃくった。もういっかい、がないことを長男は知っていた。悲しくなって私は長男を抱き寄せ強く抱きしめた。もういっかいはないんだよ、最後なんだよ。自分の心とは裏腹に私の出した声はとても冷たくて落ち着いていた。いや、そう聞こえた。長男はしゃくり上げながら泣き続けた。そして、その日が静かに終わった。それから暫くして彼らの母親は再婚した。そして、時を置いて私も××と再婚した。

私が××と再婚してからも、次男はずっと××ちゃんと呼び続けた。××はストレスが溜まって時々爆発した。私も我慢の限界を何度も感じた。私も××も、子供たちも、それぞれの立場で精いっぱい生き、それでも譲れない線があって、譲らなければ一緒に生きられないと思いながら、無理して一緒に生きる領域を見つけようとしていたように思う。あの頃、おそらく、私たちはそれぞれ皆ぎりぎりだったんだ。そんなある日、家に戻ると××が嬉しそうに話してくれた。あの子ね、私のこと、お母さんって呼んだの。××は話しながら泣き始めた。それがその家族の心の同一化作業の始まりだった。本当はみんな優しかった。愛に満ち溢れていた。それでも一度狂った歯車は元には戻らず、悪循環が始まる。優しすぎたわけでも弱かったわけでもない。そもそも皆の心の中に共通のベースが無かっただけなのだと今は思う。どこまでの領域を同一化して、どこまでの領域を個として持つのか判断できなかった。気が付くと私と次男の恋人はグラウンドとボールになっていた。汗を掻き土に塗れ声を出していると妙に落ち着いた。そうしていると、心の底からすうっと力が抜けていくそんな不思議な感覚があった。次男は狂ったように野球にのめり込んだ。私はそれを止めてあげることができなかった。いや、止めるべきだったのかどうかすら私にはわからなかった。そして、二人で過ごす機会が多くなった××と長男の心の衝突を私は和らげてあげることすらできなかった。その家族は崩壊した。

長男は、年齢的には大人になりきらないある日、意を決したかのように家を出て行った。反対はしなかった。すぐに生活に困るだろうと私が支払った敷金と1年分の家賃をすぐに返してきた。貯金をして準備をしていた。いや、現金を持っていたことより大切なのは、心の貯金ができていたことなのだろう。自己の不安定さを乗り越え、社会と調和することを前提にした自己個性の保存に成功していた。知らない間に彼は大人になっていた。

次男は大学に入って心のコントロールが効かなくなってボールが投げられなくなった。長男は次男と同じ年齢の頃には自立していた。確かに、長男とは普通に世間話をしたが、次男とは野球のこと以外ほとんど話さなかった。私との関係では野球を取ったら何も残らない、本人はそう思っていたのかも知れない。心の制御ができず、野球をやめ大学をやめ家から出ていこうとする息子を私は止めなかった。止めない自分を自問自答した。私と次男の間には野球以外本当に何もない?そんなことはない、知らないだけだ。それを教えなくていいのか?教えられない、今の私から教えることは何もない。誰から学ぶ?時間がかかるかも知れないけれども、自分で感じて学べ。自分で感じて学べば、いつか社会と調和できる。

次男が家を出て行く前の日、子供の頃よくキャッチボールをしたグラウンドの前で車を止めて、二人で野球の練習をしている子供たちを眺めていた。声は夕陽がグラウンドを赤く照らし始めてもまだ続いていた。私も次男も長い間ずっと黙って彼らの掛け声を聞いていた。何も話すことはなかった。ただ見ているだけでよかった。やがてベース付近に集まった子供たちが大きな声を出して帽子を取った。車にエンジンをかけてから私は彼を見た。彼は黙ってどこか遠くの正面の一点を見つめていた。怖い顔だった。私は不意に聞いた、お母さんのこと、いや、お前を生んだ本当のお母さんのこと覚えているか。なぜそんなことを聞いたのか分からなかった。次男は一瞬、少し驚いたような顔を見せたが、思い直したようにしっかりと私の顔を見て、でも不明瞭な声で言った。覚えてないよ、思い出そうと思ったこともあるけど、どうしても思い出せない、顔も声も。それから、妙に開き直ったはっきりした声で続けた、お母さんって言われて思い出すのは、あのお母さんだけ。それは××のことだった。あの時、私はそのあと次男にどう言ったのか、今必死に思い出そうと思っても思い出せない。思い出すのは、若いころの彼のママの面影が映る彼の寂しそうな顔と声変わりしてもまだ妙に甘ったるい声だけだ。そして、確実に言えるのは、私はそれから殆ど黙って車を運転していたということだけだ。

あれから3年以上の月日が流れた。会社では次男と同じ年の若者が働いている。しかし、彼は私への心的経済的依存からまだ抜けられないでいる。本当はそこから抜け出して自由になりたいのだろうという気持ちが私には伝わってくる。まだ、心のコントロールを取り戻せずに苦しんでいる。彼にないのはお金ではなく、心の貯金なのだ。私もそうだった。まだもう少し時間がかかりそうだ。

今でも、ピーマンと遊ぶ夢を見ることがあるのだろうか。意識は無意識をコントロールできない。無意識が意識をコントロールするのだ。完全な、隙のない心なんて存在しない、皆不完全で、抱えている曖昧性や矛盾を何とか押さえつけているのだ。何故思い出してしまったのか分からない、あの時の二つの眼。その記憶は不確かかも知れない。そして、その眼の意味を本当に理解する必要はないのかも知れない。ただ、確実にそのうち一つの眼が今でも私を見ているのだ。

私が怯えている一つの眼。その眼が私に言うのだ、グラウンドで学んだこと、例えば、練習の合間に掘り返された穴を埋めるということ、穴が開いていたら誰かが躓くかも知れない、ボールがイレギュラーするかも知れない、だから、目の前に開いている穴を見つけたら埋めなさい、と。集中しろ、同じボールは二度と飛んでこないのだと。

結局、過去の偉人は私に多くのことを教えてくれたが、肝心なことは何も教えてくれなかった。キリスト、釈迦、スピノザ、ニーチェ、デカルト、ダーウィン、ウィリアムス、フロイト、ユング、ピアジェ、チョムスキー、マー、クリック、ミンスキー、ドーキンス、ダマジオ、ガザニガ、ルドゥー、カーター・・・私に影響を与えた人たち、日本人の名前は書かないが、本当は日本人たちの方が私に答えを教えてくれている。

君がやろうとして失敗し続けているその実践は、確かに今すぐに通用しないかも知れない。いつ成功するのか、いつ自己実現に結びつくのか分からない。だから、私はその眼に言うのだ。ピーマンと遊べるのは簡単なことではない。彼はそれを家族と言う社会に報告した。夢の大小は、社会に報告できるかどうかで決まる。社会に報告した以上、個の価値を超えている。ピーマンの夢は、偉大な夢だ。ただ、大きな夢もすぐに消える。チャンスは何度も来ない。だから悔いがないようにいつでも準備をして仕掛けることが大切なのだ。これで負けたらしょうがない、そう、これで負けたらしょうがないと、それぐらい強い気持ちを持って、目の前の穴を埋め続けることが大切なのだ、と。

それが君の仕事であり、私の仕事なのだ。そのことを少なくとも君には知ってもらいたい。

ファウスト的に「永遠に迷い込むな、地上に足を付けて歩け」と言っているわけではない。「簡素な生活」を君に提案しているわけでもない。人が生まれて違うのは遺伝子だけなのだ。その違いは実はとてもちいさなことだ。人は生まれた時から殆どすべてのことを理解するだけの能力を持っている。ただ、それが生得的で在るが故に無意識で、無意識が意識に対して補償的に働いているという事実からは逃れられないということだ。君は無意識から逃れられない。君はこれから君自身をどう作っていくかが重要なのだ。

蛙がうるさい夜

彼らは同調して唄う

それは社会なのだ

その社会は長くは続かない

煩い合唱はやがて止む

苦しいとき一緒に唄えば楽になる

貧しさを分け合うのも美徳かもしれない

本当にそれでいい?

君の中のペルソナを破壊せよ

君の美しい君の声を聞かせよ

仕事を終えようとする時、人生の中で何かを仕掛けようとする時、もう一度考えてほしい。これで負けたらしょうがないと思えているか。本当にこれでいいのか。しつこいぐらい考えて感じて納得してほしい。無意識と言う魔物が君を常に取り囲んでいる。そういうことだ。


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