ヒトは何故話すのか?


私以外の他の個体に関して、その理由は分からない。だが、民族に関係なく言語を持っている。生まれたのちに、ヒトが言語を獲得する方法はまだちゃんと解明されていない。分かっているのは、ヒトが言語を獲得する能力をもった個体である、と言うことだけだ。然しながら、ヒトとして命を与えられた以上、話をすることに大きな意味がある。どんなヒトであってもそこに命に等しい高額な価値がある。

コミュニケーションは送受信である。では、自ら発信することと、他者の発信を受け入れることのどちらの側に大きな利得があるのだろうか?それは、そんなに難しい問題ではない。動物学的には、おそらく発信側の方が強く、遺伝子の延長表現型的立場に立てば、受信には優位な情報を受け入れると言う意味で大きな利得があるように思えるが、大方、性別と年齢的なものに状況を加えれば、その説明はつく。各個体での差こそあれ、生まれたての赤ん坊の発信力は凄い。正式な言語とは言えず、ただ泣くだけであるが。私の中の感覚では、その時点の発信も言語能力に含まれている。オギャー、と言う表現も、立派な単語であり、言語である。実際、若者が語り合っているTwitterなどの書き込みを見ていると、赤ん坊が泣いているのと対して変わらないが、幼稚なコミュニケーションの受発信も言語だ、と言う認識である。そもそも、スピード感のあるコミュニケーションと汎用的なコミュニケーションは相反するものである。各個体間で伝われば良いのである。言語能力が低レベルなほど発信力は強くスピード感がある。幼児期から繁殖期にかけての若い個体は、言語の発信力が強く素早い。正確ではないが。その時、受信側は正確性を求めていない。そこを過ぎて次世代のすなわち自らの遺伝子の養育期に入った個体は、送受信が5分5分あるいは、個体によっては受信力が強くなる。子供の言葉を理解しようとする親の言語受信力は、血縁関係のない個体の理解を超えている。今までは不正確にしか受信していなかった言語をより正確に理解しようとする能力が発達する。そして、その情報受容の過渡期を終え、死への親和性、死を意識する環境になった時、また発信力が強くなる。個体の性差に関しては、想像にお任せする。ここまで書けば分かるだろう。個体は、言語を中心にして愛を伝え、愛を受容し、また愛を発信する。敢えて個体と書いたがヒトの話である。

ヒトの脳は、愛を伝えるためにある。

言語を持たない生物は、愛を伝えるために、言語の代わりにもっと直接的な発信能力を持っている。ヒトから見れば超能力であるが、かつて、ヒトが言語を持っていなかった時代に持っていたに違いない、凡庸な能力である。ヒトが持つ言語能力こそが、人以外の他の個体から見れば、恐るべき超能力なのである。高度に見える(そう言われている)脳は、愛を伝えるために、言語と言う不思議な能力をヒトに与えたのだ。

所詮、今の脳を持っている以上、ヒトは言語の鎖、言語によって伝達される愛の鎖から逃れることはできない。そう言う意味でも言語処理学会の担う役割は重要だ。情報処理と言う言葉は、情報加工しか生まなかった、まだそこに留まっている。そんな失敗、過ちを繰り返して欲しくない、と言うのが私の願いだ。情報には伝えなければならない、本質的な心がある。加工をするだけでは情報の本質は見えない。言語が情報の範疇下なのか、情報が言語の範疇下なのか、そんな事はどっちでもいい。ヒトの心の本質を伝える情報を言語の中から抽出し、加工の域を脱して欲しいのだ。ヒトの心の情報を作るのは、ヒトの脳であり、ヒトの潜在能力である言語なのだ。ヒトやモノ、そしてコトの間を行き来するすべての情報伝単位は、言語に始まり、言語に終わる。そのような素晴らしい技術や研究を谷底に沈めてはならない。

そんなこと、私の知ったことか、今さら愛なんか伝えたくないし、小恥ずかしいとクールにそう感じる自分もいた。それは紛れもない事実である。ずっと、打ち破れなかった。最近まで。そんな葛藤の中で、以前に書いた竹光の話を思い出した、もどかしい、むず痒い最大の謎なぞ・・・今ならまだ間に合うかも知れない、ふとそう思った。

だからこそ、である。私以外の他の個体が話す理由は、やはり分からない、しかし、これが私と言うヒトの話す理由なのである。

【2013年度言語処理学会全国大会を終えて】

馬場さん、藤井さん、お手伝い有難うございます。しっかりと、ヒト社会にとって有用な活動を見据えてやっていくのだと言う、気持ちの洗練になりました。


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