ショートとセンター


あるボロ小屋からそのピッチャーは生まれた。その小屋は、伝説の部屋だった。誰も見たことが無い、ずっと重い錠が掛っている、子供にとっての開かずの部屋だった。冬なのに妙に暖かいある日、子供たちの間で話題になっていた、野球狂の足の不自由なおっちゃんがやって来た。ワシが開けるんや、ワシしか開けられへん。おっちゃんは大きな鍵を携えてその部屋を開けた。おっちゃんの背後に立ち竦んでいた子供たちが、埃に咽ながら部屋になだれ込んだ。木の湿気た匂いのする部屋に光が充満して、部屋の中で光が踊りだす。ピッチャーの目に部屋中に乱反射する光が飛び込んで来る。同時に目の前には、大きな木箱が見えた。さぁ、おっちゃんの声と同時だった。餓鬼のように植えた子供が箱を攻撃し、蓋を取ろうとし、足で蹴り、気が付けば、木箱の中身が見えていた。うわぁ、ピッチャーは叫んだ、うわぁ、ショートもセンターも叫んだ。三人とも小さかった。どかんかい、体の大きい上級生数人が、ショートを突き飛ばした。何すんねん、センターが上級生を睨んだ。が、嫌な目、こいつ。上級生の一人が笑う。友達でけへんで、もう一人が揶揄する。おい、このチビ。上級生の一人がピッチャーの頭を叩いた。何すんねん、もう一度センターが叫んだ。センターは、一番体の大きい上級生の左手で土の床の上に放り投げられた。放り投げて笑った上級生の声が、がはぁは、そうピッチャーの耳には聞こえた。のけや、チビ、上級生のうちリーダー格の少年がピッチャーの背中を優しく撫でた。力のある優しい手の感触がピッチャーの背中に伝わって来た。おれ、これ欲しいねん。顔も上げずに、ピッチャーは、背番号「1」のユニフォームの上で、体ごとそのユニフォームの上に覆いかぶさっていた。お前には、大きいやろ、リーダー格の上級生が言う。嫌なんや、これじゃないと。ピッチャーは泣いた。いやなんや、これじゃないと、駄々を捏ねながら泣いた。

その時、突然、軽い地震があって、小屋の棚の上から、色々なものが落ちて来た。あんが、さっきショートを放り投げた体の大きな上級生が盾と写真を取り上げた。なんや、優勝やて。え、上級生たちが集まり始める。強かったんや、ほんまに。そうやで、ほんまに強かったんや、リーダー格の少年が言う。こいつや、伝説の「1」番や、埃にまみれた写真を拭って指差した。チビぃ、リーダーの少年がピッチャー肩を掴んで持ち上げようとした。ふざけんな、そのリーダーの手が挙がった瞬間だった。おっちゃんが止めていた。ええないか、最初は何番でも、おっちゃんはリーダー格の少年の腕を掴んだ。エースの番号は、自分のこの腕で捥ぎ取れよ。リーダー格の少年は唖然としていた。そして、おっちゃんは、ユニフォームにしがみ付いたまま体制を崩さないピッチャーの背中をさすりながら、耳元で囁いた、お前走れるか。ピッチャーは泣きしゃくりながら、首を縦に振った。お前も、本物のエースにいつかなれ、おっちゃんがしゃがれた声で言った。顔を上げたピッチャーは、リーダーの少年と目が合った。オーライ、不意に、リーダーの少年は優しい眼で言った。オーライ、オーライ、それを自分に言い聞かせるように何度も繰り返し始めた。知らぬ間に、オーライ、オーライ、と、上級生たちもショートもセンターも笑いながら皆で合唱していた。

その日からピッチャーとショートとセンターは来る日も来る日も走った。もちろん、リーダーも走った。ユニフォームは、3人ともがばがばで、特にピッチャーとセンターは酷かった。そして、おっちゃんは、ピッチャーをチームの他のメンバーの3倍走らせた。それでも、ピッチャーは、いつも笑いながら走っていた。リーダーは、いい事も悪いことも、いつも3人に教えてくれた。リーダーの身体能力は非常に高かった。しばらくすると、地元で恐れられるエースになった。それでも、背番号は「10」番のままだった。一方、ピッチャーは、体に似合わないだぶだぶのエースナンバーのユニフォームを着てファーストを守った。それが、大人の笑いを誘った。盗塁を刺されて、エース、ユニフォームが重いのちゃうか、と相手ベンチからヤジられた。ピッチャーは、リーダーに代わって、時々投げた。その時は、誰もチビだと笑わなかった。殆ど打たれなかったからだ。

リーダーの最後の試合、決勝戦だった。最終回までもつれて、あと2人だった。まずいことに塁は全部埋まっていた。おっちゃんがベンチを出て来た。リーダーがファーストを守っていたピッチャーの方を向いていた。にこりと笑いながら、手招きをした。あと2人やろ、最後やろ、普通ないやろ、負けてもええやん、ピッチャーは言った。監督命令や、リーダーはボールを差し出した。満塁や、1アウトや、1点差や、俺らの攻撃はない、打たれたら負けや。リーダーはピッチャーの肩を抱いた。ええか、お前の悪いとこ教えたる。打たれることもあるんや、それがどうしてん、みんなバットを持っとる、それを忘れんな、打たれたら後ろを向いてみ、そしたら分かる。ピッチャーは、ボールを受け取った。マウンドで、ベンチを見た。おっちゃんが優しい眼で笑っていた。帰っていったリーダーが拳骨を振り上げていた。ピッチャーは、ひきつりながら、でも笑った。おそるおそる振り向いてみた。前進守備のショートが眼に入った。ショートは笑っていた。

プレイがかかってセットに入った。1-2からの3球目だった。どうしてもストライクを投げたい気持ちが強すぎた。甘く入った真っすぐを相手打者がとらえた。やられた、まずい、と思った瞬間振り向いた。一瞬の出来事だった。ショートが横っ跳びで取っていた。ライナーだった。おぉ、思わず声が出た。よっしやー、ベンチからリーダーの声が聞こえた。おっちゃんは、サードラン戻るん遅かったやろ、なげんかぃ、と怒鳴っていた。あぁ、ええよ、ええよ、1つで、完全に抜けたと思った・・・ピッチャーは内心ほっとしていた。目の前を向いた。嫌な打者が立っていた。さぁ、打ち取る、確固とした強い気持ちになる。初めて対戦した時に場外まで持っていかれた強打者が目の前にいた。振り返ると、センターが笑いながら後ろに下がっていった。目の前の顔を見るだけでむかついた。こいつだけは、三振しかない。そう思った。

簡単に追い込んだ。真っすぐに振り遅れていた。打ちそこなったわけではなかった。明らかに振り遅れていた。変化球のサインに首を横に振り、ピッチャーは、真っすぐで勝負した。ボールは指にかかった最高の球だった。明らかに打ち損じたが、ピッチャーの頭を中途半端に超えて行く当たりが飛んだ。えぇ、ピッチャーは慌てて振り向いた。落ちるのか、そう思った瞬間、遠くにいたはずのセンターがショートの少し後ろまで走って来て前に飛んでいた。一瞬、激しい砂埃のせいで、誰の目にもよく見えなかった。やがて、舞っていた土の埃が落ち着いた隙間から、センターの左手が見えた。寝転がったままの状態で、笑いながらグラブを挙げていた。セカンドの後方にいた審判の右手が上にあがった。すぐに、主審がゲームをコールした。試合は終わった。おぉ、ピッチャーは両手を挙げてベンチを見た。リーダーと監督が手を叩いて笑っていた。ショートは、起き上がれないセンターを起こした後、ボールをこちらに投げた。白いボールがピッチャーのグラブに収まった。ベンチに引き揚げて行く敵の選手が恨めしそうにこちらを見た。おぉ、もう一度ピッチャーは叫んだ。

一人で頑張れること、皆で頑張れること、あの時、振り向いたら仲間がいた、仲間が教えてくれた、そして色んなことをグランドから学んだ。大人になったピッチャーは、昔のことを思い出して、居酒屋で酒を飲みながら、数十年ぶりに再会したショートとセンターに言った。

もぉ、ええか、ショートが言った。あぁ、ええよ、センターが続けた、あれな、あの最後のセンターフライ、実は落としててん。おれら、3人ともユニフォームだぶだぶやったやろ、ボールがユニフォームの胸元に入っててな、おれは取ったつもりで手を挙げてんけど、すぐにこいつが走って来て抱き合うふりしてごまかしてん。ピッチャーは、ショートを見た。そうやねん、おれがごまかしてん、ほんまはサヨナラ負けや。ショートは笑いながら言った。なんで、隠しててん?ピッチャーは驚いて尋ねた。あの状況で言えるか、それに、おまえ、最後はいつも真っすぐやろ、二人は同時に笑った。ピッチャーの伝説はそこで終わった。

ショートとセンターの吐いた、今となっては些細な嘘に時効と言うのはあるのだろうか、ピッチャーは考えた。おまえ、最後は真っすぐやろ、そう言った二人の言葉が胸につかえた。ボールを渡しながらリーダーが最後に言った言葉がようやく理解できた。打たれたと思ったら振り向け。そうだった。振り向いたピッチャーに向かって、今でもショートとセンターが笑っていた。


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