このストーリーは誰のために



 物語はいつでも生まれる。それはあたなが生きているからだ。それは、きっとあなたのストーリーだ。私にも生きているかぎり、あなたと同等のストーリーが生まれる。そこに美しさの優劣なんかない。どういった遺伝子を後世につなごうとして私がいてあなたがいるなんてどうでもいい。ただ、私が言いたいのは、今ここに私がいて、あなたもいるということだ。だから、私は書く。言葉をつなぐ。その言葉が誰かに伝わると信じているからだ。言葉はある意味、性差を越えた伝達行為なのだと私は信じている。そのために言葉がある。

 私は、ずっと遺伝子に縛られてきた。それを破壊したいと思って、本気でそれを破壊したいと思った少年が考えたのは、小説を書くことだった。血にあがき、血に逆らい、そして血を乗り越えるために、そう思って書き続けた。それはある意味執念だった。そして一編の物語が生まれ、それを世に問うべきか悩んだ。それは過去でしかないリアルを問うべき物語であった。主観と客観の間で揺れ続ける日々が続く中、二編目の小説を書いた。それは過去ではあっても、まさしくリアルでしかないリアルであった。私が生きるという実践の中で生んでしまった、生んでしまった、リアルそのものだった。私の遺伝子の主は、私の物語を最低だと罵った。それは最低最悪の表現型だった。しかしながら、それが私にとってのリアルだった。その最悪の表現型のリアルが私をこの30年以上の間私を責め続けた。もう、いいだろうと思う。もういいだろうと。

 私が生まれてきたという物語は私のためにある。あなたが生まれてきたという物語はあなたのためにある。私は、少しずつ、そう少しずつ、この絡み合った縄をほどいていかなくてはならない、そう思って生き続けてきた。なぜ、そう思うのか分からない。なぜ、重しがあると感じるのか分からない。でも、それが重しなんだ。まず、一つ目の縄を解きにかかろうと思う。
 私には、ずっと背中を追い続けている人がいる。見えそうになっては消え、見えそうになっては消える大きな背中。谷田亀寿は、1889年に生まれ、1972年に死んだ。じいちゃんだ。偉大な大きな背中。最近時々やっと見える気がする背中。私が子供の頃から縛られ、そして抵らいたいと思った血そのもの。インターネットは無常だ。知らなかったことまで示唆してくれる。

郷土史の研究に一生を捧げ、地方文化の向上に大きな足跡を残した亀寿は明治22年10月25日、倉吉市清谷(旧日下村清谷)に生まれた。亀寿の父注柄は清谷の旧家船越家の出で同じ清谷、谷田家に養子に入り俳人としても名高く近在に知られた人であった・・・中略・・・明治29年、日下尋常小学校入学、続いて鳥取県教育会教員講習所に学んだ。同校を卒業するや日下村役場に勤務するものの兵役に服し、明治41年4月、由良尋常小学校に代用教員として勤務。これが昭和28年河北農高を退職するまでの実に45年間の長きにわたって教育に、郷土史の研究に挺身(ていしん)する契機となった・・・中略・・・船越家は旧家であり神職を兼ねていたがゆえに収蔵されている古文書類も多く、船越家に出入りする度に亀寿はその古文書を目にする機会も多かったものと思われる。亀寿はやがて古文書を見ながら船越家の祖先を探ることに気持ちが動いていった。そして祖先探しがいつしか歴史への尽きない興味へと広がり、生涯をかけた郷土史研究へとつながっていったのである。・・・中略・・・教師としての亀寿は訓導に昇格し小鹿尋常小学校へ、そして舎人、竹田尋常小学校に大正11年3月まで勤務している。青年教師の亀寿は自然の中で純真な子供たちにその愛情をいっぱい注ぎながら一心に教育実践に励んでいったことであろう。職員会、研究会ではいつも自分の信念を披瀝し決して曲げることはなかったという。やがて、亀寿にとって彼の郷土史研究をより一層深める転機が訪れた。宇野尋常小学校への転勤である。大正11年4月から昭和13年3月までの16年間の長きにわたって勤務している。この時期、亀寿は田後の朝倉つると結婚している。新婚生活とはいえ暇さえあれば歴史書をむさぼり読む日々であったという。・・・中略・・・通勤の途中、日々橋津馬ノ山古墳を眺めていくうちに彼の胸に馬ノ山古墳が大きな位置を占めるようになった。休日には馬ノ山に登り実測を繰り返し中国地方有数の規模を持つ古墳であることを突き止め、当時新進の歴史学者として学界で注目を集めつつあった京都大学の梅原博士に紹介した。このことが縁となって終生亀寿は梅原博士と固い友情で結ばれお互いに尊敬しあうことになった。後年、博士は子息穎郎に「オ前ノ親父ハ古代モ中世モ何デモ出来ルカラ私ハツイテユケヌ。若イ頃オ前ノ親父ト手弁当、地下足袋デ歩キ廻ツタモノダ。」としみじみ述懐されたという。この時期の亀寿は彼の研究生活の中でも最も油が乗り切っていたころであった。勤務のかたわら宇野、本尾崎庭園を調査し、水琴窟を発見し世に紹介している。また、有名な伯耆国河村郡東郷庄絵図について、宇野村郷土誌に、「倭文神社昇格願提出前に同社の社司湯浅織寛君没後後任社司手嶋道雄君の手によりて模写され更に花見村野花松尾神社社司荒井了介君に依属されて昭和5年7月6日伝写したのが之である。」と述べているが、早くからこれらの研究に取り組み、学界で発表している。・・・中略・・・昭和初期、全国的に国民意識の高揚が叫ばれる中で、それに伴い郷土をみつめ直す気運が盛り上がっていた。県当局の奨励もあり各校で郷土史の編集が企画された。宇野校においても時の校長の発議により亀寿を中心に「宇野村郷土誌」の執筆編集が進められた。宇野村郷土誌の序文に郷土史にかける熱意、そして彼の人生観が表れていると思うので記してみる。「お互いに、生を此の世に享けて、土を踏み、草の香花の徴醺に陶酔することが出来るのは何より幸である。(中略)郷土の自然に育まれ、此の自然の恩恵に対して内的な生命を観照し、此の中に培はれた貴い歴史を顧みることは愉快であり、之を記録しておくことは将来の国民文化建設に資すること尠からざるものがあると思う。」・・・中略・・・多忙な教育実践のかたわらでの執筆である。時には深夜に及ぶことも珍しくなかった。ようやく昭和12年2月に苦心は実り発刊された。今「宇野村郷土誌」の史料的価値は高い。このころ、近衛文麿が来県。三徳山に遊んだ。その折亀寿はその案内役を仰せつかっている。歴史研究一筋の亀寿は給料の大半を専門書の購入に充てるのが常であった。そして買い入れた本を横になりながら夜の更けるのも忘れて読みふけり、子息穎郎は、「ソレ以外ノ父ノ姿ハマツタク印象ニアリマセン。」と父をしのんでいる。したがっていつも清貧に甘んじなくてはならなかった。それを支えたのは夫人つるであった。吹雪の中をつるは天神川の小石の採石をし家計を助けたという。街道沿いに位置していた自宅には行きずりの旅人が一夜の宿を無心に夜毎訪れたという。しかし、どんなに貧窮していても亀寿と夫人つるは、「何モナイケド旅ノ方上リナサイ。」そういって快く家へ上げ、食事をふるまい、亀寿は未知の旅人にも旧知の間柄のように気さくに語りかけたものだという。国家総動員法が制定され、戦争への道をまっしぐらに突き進みつつあった昭和13年河北実業学校に転じた。校種は異なれど、郷土史の研究に以前にも増して没頭していった。亀寿の授業を受けたかつての教え子たちは、「谷田先生ノ授業ハ本当ニ面白カッタ!」と異口同音に語っている。きっと亀寿がいつも自身の研究成果を語りそのため歴史が躍動し生徒が引きつけられたのであろう。・・・中略・・・昭和16年、太平洋戦争勃発。亀寿は激変する時勢の中にありながらも東伯史教会副会長を勤めるなど考古学の研究に打ち込んでいった。・・・中略・・・市誌編さんにかかわっていた昭和28年、河北実業高校を退職した。半世紀近い教員生活に終止符を打ったのだ。その時、夫人つるはそのことによる家計の窮迫を心配していたが、亀寿はこれで本当に研究ができると言ったという。考古学研究に生涯をかけた亀寿の真骨頂がその言葉によく表れている。昭和28年、町村合併により羽合町が誕生。その10周年記念として町史の発刊が企画され、編さんが始まり、亀寿は編集委員長として編集委員の各氏とともに協力して編集に当たり研究の集大成としての意気をもち精力的に執筆を進めた。やがてその努力は報いられ昭和42年町史前編の完成をみた。この年、亀寿にとって心血を注いだ町史前編の完成とともにうれしいことが続いた。彼の永年にわたる研究が認められたのである。政府は亀寿に勲4等瑞宝章の授与を決定したのだ。・・・中略・・・前編の完成後、続いて町民の間から後編の発刊を望む声が大きく、それを受ける形で後編の発刊が決定した。編集は鋭意進められ亀寿は前編にも増して準備に全力を傾注していった。しかし、頑健で調査を繰り返していった亀寿ではあったが昭和47年9月8日発病。同日脳血栓にて死去。享年84歳。谷翁考古居士。亀寿が全力を傾注して編集・執筆に当たった町史前編は全国的に高く評価され、その史料的価値も高く、日本各地の図書館はもちろん、アメリカ、カリフォルニア大学図書館等にも収蔵されている。いついつまでも元気で研究を深めて欲しい亀寿であったが彼の歴史にかけた夢とロマンスは今も多くの人たちの心の中に脈々と生き続け共感を呼んでいる。

 じいちゃんは有名ではないけど、立派な研究者だったのだと思う。私は研究者ではない。そういう生き方はして来なかった。そういう生き方をしたいと思ったことはなかった。そういうストーリーは私の人生には不向きだと思っていた。霞を食って生きるような生き方をしたいと考えたことはなかった。多くの研究者を見てもそれを凄いとか思うことはなかった。私の人生の物語からはその部分がすっかり抜け落ちていた。私はとても俗物で愉快でさえあればそれでよかった。中途半端に素直で、自分で望んだ快楽の人生の物語の中で苦しみもがくという無様な生き方をしていた。自分が無様なだけならよかったが、その無様さが多くの人に哀しみを与える結果になった。そのことを感じないでいることが出来ない自分の繊細さを恨み血のせいだと嘆いた。運命なんか変えれるものか、と思ったりもした。あがらえば、あがらうほど心は深い慟哭の闇の底に落ちて行った。

 ある日、何の前触れもなく、不意に私を吹き抜けていった風が静かに知らせてくれたような気がする。あの日の、色目でいうと少し青みかがった半透明色の風のせいで、私は私が生きる術と新しい物語を理解できた。その風の色は声の色だった。子供の頃からずっと忘れていたじいちゃんの声が私の耳元に蘇ってきた。まだ小さい子供だったある夜、じいちゃんが夜中に出かけるのを見て怖くてずっと待っていたのを思い出した。夜明け前に戻ったじいちゃんを門の前で迎えると、じいちゃんが私の頭を撫でながら言った。そう、あの時のぞっとするような、怖くてとても優しい響きのあるあの声だ。舐めるように飲むんだよ、静かに揺れる池の水面の上を滑る真っ暗な船の中でね、ローソク立てて揺れる火を見ながら舐めるように飲むんだよ、身体が揺れて頭が揺れて、そして考えが整理されるのさ。飲むのはお酒のことだというのは口臭からすぐに分かった。私はようやくその声で理解した。あの日、20年分の仕事の資料や報告書をすべて焼き払い、溜めていた本も論文雑誌も、小説のように気に入っているもの以外はすべて処分した。それが理解した私のけじめだった。今、それまでにやって来た仕事の内容は体験という姿で私の心の中にある。私はそこに戻って確認することはない。考えてみればいたって簡単なことだった。
 こうして一つ目の大きな壁を乗り越えるのに生まれてから45年もかかってしまった。だが、まだすっきりしないことがいくつかあって、時々私を苦しめる。そのいくつかといつ決別できるのか、あるいは墓場まで持っていくのか、さっぱり予想がつかない。

 先日の音響学会で、早稲田大学の匂坂先生の招待講演を聞き、いくつかの問題に関して少し糸口がつかめたかも知れない。きれいな言葉を選ばずに素直に話す、とても面白い人だ。その中で印象に残る言葉を残してくれた。一つは、自分の研究を報告するということは、何をやってどんなことが分かったかを言うのが重要なのではなく、自分が伝えたいメッセージ、心の奥底から出てくるようなメッセージを伝えることが重要なんだといった意味のことだ。私の私なりの解釈なので間違っているかも知れないが、もし合っているとすれば、私の矮小な問題がひとつ解決する。もう一つは、音声と言語の話の中で、音声をパラ言語ではなく、汎言語として位置付けていたことである。書き言葉に縛られるのはいい加減やめようという熱いメッセージがその中に込められていた。話すということがそもそも言語であって、書くということはむしろ共有の伝達手段として生まれた従属的で限定的な象徴的ツールである、という当たり前でありながら忘れられがちな事実である。テキストには、言語としてのたくさんの情報が抜け落ちていて、音声言語、話し言葉のすべてが言語である。つまり、テキストは客観的に言語を表現するための一手段であって、主観的に人が表現したかった情報は欠落している。人が凄いのは、その欠落した情報を想像で埋め合わせる力があるところだ。だから、パラ言語といった従属的な、いや並列的なといった方が正しいかも知れない位置づけが発生してしまう。想像は欠落した部分を補う仕事をしているのだ。しかし、この作用が無ければ文学は存在しない。そして、私のブログも存在しない。匂坂さんの話は私に刺激を与え、そして、私の運命を大きく変えるような気がした。私がが直近でやるべきこと、私がやらなければならないこと、多分、それは天に与えられた自分の役割だ。それが今はっきり見える。
 そんな感じで、脈絡もなく、目下私のストーリーは進行中である。不思議なことに、年を取ってからの方が、まだまだ、未来を変えられるのではないかと思い始めている。いくつかの問題は、そのうち解決するだろう、そして、いくつかの問題は墓場まで解決しないだろう、と楽観的に考えている。解決するときは、不意に吹く風のせいで、そんなふうにも思える。あなたも両手両脚をいっぱいに動かしてあがいてみるとよい。そしたら、何かが変わって見えるもしれない。何かを変える何かを思いつくかもしれない。もしかすると、揺れながら酒を飲むのもよいのかもしれない(笑)。私は、いつも思っている。揺れたいと。頭の中を、いや心の中をゆっくり、いや適当な速度で揺らしてほしいと。それで、やっと次に進めるのだから。


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