お月さまが笑っている


お母さん、お月さまが笑っているよ、

君の眼に映る三日月は笑顔そのもの。

月は動き、そして生きている、

日々その表情を変える。

もし、君に、神はどこにいるのかと尋ねたら、

神はあそこにいるとその月を指差すだろう。

 

君は月だ

君は太陽だ

君は私だ

君は神だ

そして、君は君だ。

君が君でなければ、お月さまは笑わない。

世界の限界は、きっと君の言葉の限界だ。

君の微笑みの限界だ。

 

我思う故に我あり、という「方法序説」第4章にも出てくるデカルトの有名な言葉がある。心と身体の二元論という、最近ではあまり評判のよくない論理として知られるきっかけとなった言葉だ。ダマジオの「デカルトの誤り」の中では、そこの誤謬に触れている。

しかし、身体と心が一緒でないと働かないなど、よく考えてみると当たり前の話だし、我思う故に我あり、という言葉は、生理学的な話とは全く別次元の話だと私は考えている。デカルトが言っているのは、考えを言語化しようとする何かがあるとすれば、それは確かにその何かが実体として存在していることを意味する、それを真とすることは避けがたいことで、それを哲学的な法則の1つにしようじゃないか、という当たり前なことしか言っていないように私には読める。

私の想像でその先を繋ぐと、その存在している実体は、私であり、君である。私あるいは君が言語化しようと試みている対象も実体である。形があるものはもちろん、つかめなくても、手に触れることができなくても、心に触れるものはすべて実体である。私がそれであり、君がそれである。

ほら、禅問答の世界につながった(笑)。

世界の限界は言語の限界である、と言ったのは、ヴィトゲンシュタインだ。限界の内側にあるものが神であり愛である。私も君も微笑みを向けられるすべての対象が内側にある。限界の外側にあるもの、それを神秘と呼ぶらしい。

想像のパズルを組み立てて遊んでいると、毎日が楽しくなり、触れるものすべてに愛が溢れてくる。私も君もそれなのだ。

神秘にどんな愛があるのか私はまだ知らない。今度想像してみよう。


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