「認知」の涙


世代によっては知らない人も多いかも知れないが「無知の涙」と言う本がある。永山則夫と言う死刑囚(1997年に刑は執行された)が獄中で書いたものだ。何か社会的に難しい事件や少年犯罪が起こった時に、しばしば、復刻版のビールのように、彼の名前が出てくる。彼は19歳の時に連続殺人を犯して逮捕された。そのとき、銃を持っていた。19歳と言う若さと、その時代にしても稀有な貧しい生い立ちに裁判も世間の声も揺れた。結果的に、永山少年に対して、最高裁は、死刑の判決を下した。彼が複数の無実の人の命を奪ったことは紛れもない事実であり、同じ環境で育った兄弟は、何も問題を起こしていなかったから、と言うのが大まかな理由だ(本当は死刑には、計画性、残忍さ・・・もっと多くの判例からの基準があるが)。本当にそうなのか。同じ環境で育った兄弟がまるで同じ職業にでも就くとでもいいたげな感じがしてならない。同じ兄弟でも、全然違う。皆学者になり、でもひとりだけ芸人になった、何て話はある。そもそも、環境と結果に着目して同情するのは間違っている。それは、言い訳にしか過ぎない。私は特に彼に同情をしているわけではないが、ただ、ボタンの掛け違いは、ちょっとしたことで起こると言うことを主張したい。結果だけを見て判断するのなら機械でもできる。もっと、深部にメスを当てるべきだ、と思っただけである。私としては、単に、永山則夫が書いた本の「無知」は何を意味するのか、ふと思い出して気になったので考えていたのだ。

では、彼の言う「無知」とは何を意味するのだろうか。私は、彼の言う「無知」とは、常識を肯定できないことを意味すると考える。

では、「常識」とは何か?

アインシュタインは、常識、つまり、「コモンセンス」のことを「18歳までに人間が集めた偏見のコレクション」と定義したらしい(「人生の終楽章だから“逃げずに”生きたい」なだいなだ)。そして、なだいなだは、その著書の中で「18歳までに作り上げた、社会と共有していると信じているものの見方」と付け加えたい、と言っている(まるで、正反対の意識のように聞こえるが、ここでは、日本語の「常識」と英語の「コモンセンス」の違いを議論しないことにする)。この「常識」には、無意識の刷り込みも含まれていて、それを自己の中で意識上に上げてしまったときに、心地よければポジティブに感じるし、それが不快ならネガティブに感じるだけの話だと思う。つまり、ボタンの掛け違いは、19歳の人間にとっては、常識を意識しなければならなくなった時の感じ方で起こるのである。いっそのこと、意識しなければ良かったのだが、若いうちは、まだ常識の層が薄く、意識上に現れやすいものなのである。

さて、では我々の研究が求めている「認知」とは何を意味するのだろう?

「認知」とは、過去の「常識」は心の中にあるのに、それを眼の前の現実と照合し、新しい層を積み重ねていくことができることを意味するのだと思う。それができなくなった状態を一括りにして、認知症と呼ぶ。つまり、インプット側か、アウトプット側のどちらかが故障しているために心の部分から取り出せなかったり、格納できなかったりするのである。「故障」を起こした人間も「常識」がないと評価される。世間からも、もしかすると家族からも。全身、あちこちを拘束されながら、殺してくれ、とふと正常に回路が繋がった瞬間に泣きながら訴える人もいるという。まさに、認知の涙だ。神様の悪戯か、接触の悪いコードは、以前の人間性を時々復活させる。いや、以前より愛着やユーモアのある顔さえ見せるのだ。しかし、その顔は過去とはどこか違う、なぜなら、故障中の心だからだ。いや、故障と言う定義すら怪しい。私は、完全な心の回路に「尊厳」があるのなら、故障した心の回路にも「尊厳」があると思う。故障したのではなく、新たに形成された心だと思う。少なくとも、不謹慎な言い方はやめよう、立派に人の心だと認めるべきだ。

我々が知りたい「認知」を知るためには、「認知」が前とは違う状態を観察する必要がある。ひとつひとつ、できれば丁寧に。そんなことが可能だろうか?答えは、イエス、である。違う部分に、想像力を逞しくできるエビデンスがある。このエビデンスは、通常、情報量がある、とも言われる。私が思うに、観察は想像とセットでなければならない。観察から得られる定性的な、あるいは、もっと自然科学的な定量的なエビデンスは、我々に想像をもたらしてくれる。つまり、想像のない観察は無に等しい、と私は思うのだ。それが、たとえ現在定義されている自然科学の検証方法に準じていなくても、想像は力なのである。なぜなら、研究は自然を想像すること、デザインすることに他ならないからだ。

では、永山則夫の心には、インプリマがいたのだろうか?認知症の人の心には、インプリマがいるのだろうか?人の心は、インプリマによって正しいことの学習と間違ったことの学習をする。そして、その基準を軸にして、書いたり消したりしながら、「常識」を形成する。「ほめられる」、「しかられる」と言うのがインプリマの仕業である。インプリマは、いつも正解データを持っている。インプリマは大抵母親である。多分、経験がある方が多いとと思うが、両親のどちらか生理的に受け付けなかった子供の頃。成長しつつある心に、正解データが複数あると戸惑い、一貫性のある学習モデルが形成されないのである。ゆえに、片方を拒む。当然である。父と母は似ても似つかない!

私は、永山は見つからないインプリマを求めていた、と思っている。そして、認知症患者も、脳の故障個所によっては、インプリマを求めているのではないか、と考えている。彼らに接する時、あなたは、父親であり、母親である。彼らは、尊厳を持って生きるための学習を欲している。あなたは、それを教えなくてはならない。別に教師になる必要はない。上司になる必要はない。同じ視座に降りて話す、ただそれだけだ。

なぜ、私が今このような話をしているかお分かりだろうか?ヒトとヒトの関係を表す、すべてに通じる道がこの中にあるからである。認知症患者と永山則夫と言う死刑囚、そしてその周辺の人物を想像して、極端な例ではあるが、インプリマと言う仮説をもって語った。登場人物を置き換えれば、様々な想像と答えが導き出せるはずである。

今朝、研究開発グループのミィーティングの中で話した時間観、その時間観の中で最も短い自分の人生、それが我々の研究素材である。ビッグバーンで生まれた世界は、やがて滅ぶ。それは、避けられようのない事実である。数万年、数億年と言う単位で変化する物質進化(あえて遺伝子とは言わない、別の仮定があれば、違う世界観がある)、数千年、数百年と言う単位で生まれ変わる物質の価値観、そして、我々の研究素材たる、最も短い時間である。その最も短い時間の中に、「心」がある。

「心」とは何か、「認知」とは何か、それは、とても小さな研究素材である。しかし、私にとっては、とても大きな研究素材、私の人生の時間が、私自身が感じられる一番長い時間だからだ。私のような凡庸な人間にはうってつけの題材ではないか。今、51歳。あと、30年は生きる自信がある。生きているうちに知れること、知りたいこと、たくさんある。なぜ、生まれて来たのか、なぜ死んでいくのか、そんなことではない。「心」も「認知」も笑い、そして涙する。悪い意味での、痛いと感じる意味での「涙」と直結する「心」や「認知」を少しでも消したい。私の探求心はそこにある。同じ涙でも、「幸せ」に満たされる涙のデザインを探求したい。それは、私の人生より、少しだけ長く生き延びる。つまり、私の探求した「心」や「認知」が私の死後何年生き続けるのか、それが問題なのである。

「幸せ」という言葉を安っぽく使ってはいけない、常々私は感じる。それは、今そう言う状態にある時には分からない、難解な代物である。私たちの過ぎ去った「幸せ」の時間は、同じ形では決して戻って来ない。私たちは、同じ経験を二度とできない、と言うことである。今、あなたの目の前に真っ白なボールが転がってきたら、不用意に手を伸ばして捕るのではなく、自然に手を伸ばして捕って欲しい。あなたの努力は、普段からイメージすることである。単にイメージするだけでそれは達成できる。緊張してはいけない。自然に手を伸ばすことだ。そのボールは二度と来ないのだから。

私たちの知らないビッグバーンの時代から、私たちの知っている人生と言う短い時間の中まで、すべての出会いは偶然なのである。偶然をコントロールする科学、それはありえない。しかし、その偶然は、全くのランダム、出鱈目と言うわけでもなさそうだ。心の中のニューロンが行う学習や取り出しは、確率や多数決で問題を解決しようとする我々の行動にどこか似ている。


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