「た」



あった。の「た」

あった、あったと彼がいう。
ある、あると彼女がいう。
丁半博打のこの世界。
2文上を仕掛ける詩。
この意味、
分かる人いる?

あった、の「た」。

 その「た」は過去形の「た」?その「た」は過去完了の「た」?
 「た」って何?過去形って何?過去完了形って何?
 私が習った日本語の文法。「た」って意志を持っているのか?
 「た」って言った彼はその事態をある程度予測していたのか?そんな疑問が湧きあがる。
 言語学の世界では。「た」。たかが「た」である。されど「た」なんだろう、予測している派の積み上げるエビデンスと予測なんかしていない派の積み上げるエビデンスが拮抗しているらしい^-^

 もし、彼が「ある」と知らずに何かを見つけ、「あった」と言ったとすると、それは実に子供っぽい。大人のする会話の技術ではない。「子供」だといったのは、絶対的な年齢ではない、そういう個性だということだ。「た」には意志が必要であるというのが、「大人」(これも個性かも知れない)の意見だ。話には、キャラがなければならない。言葉はキャラそのものなのじゃないかと、つくづくそう思う。
 「あった」と誰が言ったのか?どんな人が?
 大人?子供?男?女?明るい人?暗い人?よく喋る?家族は大事にする?お金は好き?怒りっぽい?神経質?その人、何かあった?何かがあったの?

ある、あると彼女がいう。

 「ある」といったのは?彼女?子供だったら?おじさんだったら?
 彼女じゃなければ、違う世界が見えてくる。言葉は、そんなキャラに表象され躍っている。

 誰がどんなタイミングで誰に向かって言ったのかが重要である。そこに人と人とのコミュニケーションがある。だから、私はコミュニケーション研究を続けている。人と人のはざま、言葉と言葉のはざま、その意味を知り尽したい。

丁半博打のこの世界。

 この言葉は、研究成果や技術成果の評価をする時のベースライン、つまりランダム性に匹敵する。

2文上を仕掛ける詩。

 1文上は、確率統計の検定に通らない。ダマシというのは、ちゃんと統計検定に引っ掛かる。ヤクザな言葉に聞こえるけれども、とても、合理的なのです。FASTの方の心(TASSいう人もいる)の抵抗が大きいが故に難しそうに見えるだけで、本当はとても合理的な詩なのだろう。

 普通に考えれば、意識に現れたものから無意識は見えない。だったら、無意識の信号から意識は見えるのか?
 否、見えない。無意識の信号はあくまで無意識だ。無意識の信号を意識に変換したら、それはその時点で何の意味もないウソになる。
 じゃあ、普通に考えなければ、意識から無意識は見えるのか?
 見える。意識ではないのかも知れない、言語化されたエビデンスが数多くある。
 言語化されたエビデンスを拾うアプローチは、バイアスもかからず、コストも無視できるぐらい小さい。
 そこに無意識を解く近道がある。DNAと掛ければ、きっと最短距離だ。

「た」。
 この、たった一文字にしっかりとあなたの感情や人格が現れている。
 た、と言ったときの、
 た、と聞いたときの、
 音韻、イントネーション、諸々思い出して頂きたい。
「た」。
 これで、あなたは、誰かのイメージを判断しているかも知れない。
「た」。
 これで、あたなは、誰かにイメージを判断されているかも知れない。

言語から測れるものはすべて数にできる。
そして、言語から測った個性が、あなたが感じているクオリアを除くすべてである。
2015.07.07 Y.Tanida


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