“場の理論”と“アブダクション”と“KJ法”と


"前回"、アブダクションとKJ法に関して書いた。
※前回のslideshareより、アブダクションとKJ法の部分だけ抜粋

 

今回は、KJ法を実践する、発想する、“全体”としてみる際に重要になることを「場の理論」よりまとめておきたい。
 

「位置づけ型」 ―龍安寺の石庭のように

「場の理論」[1]では、「全部(total)と全体(whole)の概念は違う。全部というのは部分を足した総和のこと、そこには全体性は失われる。」とした上で、「積み上げ型」ではなく、箱庭のように「位置づけ型」で構築することと説明されている。

ブロック(要素)を積み上げていく機械的・論理的な「積み上げ型」では全体性が失われる。一方、箱庭的構築とは、龍安寺の石庭からイメージを受けるように、“全体”に位置づけながら部品を置いていく「位置づけ型」、これは“全体”の中に、“全体”と調和するように構築していくことと。
 

自他非分離の超越的観点

パースのアブダクションについて、超越的な観点と場の情報に関する考察が欠けているとの指摘がある[2]。超越的観点とは、主と客、自己と他者を分けない主客非分離、自他非分離の捉え方。

「自己中心的自己は、『見るもの』と『見られるもの』とを区別して、自他分離的にものごとを捉えます。近代社会における人と人との関係は、この自己中心的自己によってつくられたものです。それに対して、場所中心的自己というのは、自他の区別なく超越的な観点で、自己を含むあらゆるものごとを関係として捉えます。」[2]

KJ法は、この考え方と方法論が体系化されているのだと思う。
 

無形の位

「己を空しくして、データをして語らしめる」、「明鏡止水」の境地と、KJ法では言うが、これは柳生新陰流の「無形の位」と通ずる。

「普通は、まず『私』というものが存在していて、『私』が何かしてやろう、などと考えるわけです。しかし、実はそんなふうに思っていては、大したことはできない。『私』から離れて、自分も相手も含んだ全体を飲み込んだ見方でものを見るということをしなければ、自分自身の最高の働きを発揮することなどできない」[2]

そして、西江水、神妙剣について、

「能において世阿弥が説くように、あるがままの本来の心であり、場に応じて無心に働くものでなければなりません。もしも、自分にとらわれやこだわりがあると、身も心も水のように柔軟な働きをすることはできません。また、そのとらわれているところを敵に乗ぜられてしまう可能性があります。そのようなとらわれやこだわりは、結局、自己中心的領域に生まれる分別心からおきるものです。その分別心から出る心身の動きを抑えるためには、場所中心的領域で場の状況に応じて無意識かつ無心に働く根源的な創出ルールの働きに自分自身を委ねることが必要です。それが西江水であり、そこに生まれる働きこそが新妙剣です。」(神妙剣とは、柳生新陰流で最高の働きのことを言う。)[2]

 

 

[1] 『場の思想』清水博, 東京大学出版会, 2003.
[2] 『生命知としての場の論理―柳生新陰流に見る共創の理』清水博, 中公新書1333, 1996.


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