破壊せよ、とアイラーは言った

「破壊せよ、とアイラーは言った」そんな題名のエッセイがある。ずいぶん昔に中上健次という、もうこの世にはいない、高校生の頃、私が好きになった作家が書いた同名のエッセイがある。エッセイって今で言うとブログ、Twitter、Facebookへの書き込み、lineみたいなものだ。まとまりはなく、ふわふわした自分の気持ちを世間にぶつける、破壊したいけど破壊できない何かがある、つながりたいけどつながれない何かがある、そのぎりぎりのラインで人は表現したくなる、そんなものなのだろうか。破壊せよ、と私も言いたい。

私は中上健次のこの時のこのエッセイが好きで時々読んでしまう。なぜ?

この本には「RUSH」という1978年に週刊プレイボーイに半年ほど連載されていた彼のエッセイと「破壊せよ、とアイラーは言った」というエッセイ、処女作とされている、「赤い儀式」という短編小説が収められている。1978年、セックス・ピストルズに魅せられて何かに目覚めた高校生はクラブ活動を辞め、付き合っていた彼女や優しい先輩、優しい友人の言葉を受け止めようともせず、孤立をよしとし、父親の書庫で父親のブランデーを煽りながら父親の日記と詩を読みふけり、自分の同じ年頃に朝鮮戦争の反対闘争の参画で権力の箱に押し込められようとしながら足掻く心の叫びやその後赤のリーダー的存在になっていって小林多喜二の追悼会を仕切った時の心の高揚感を知った。人生というのは皮肉なものだ、その時の気持ちは純粋なのかも知れない、とふと子供ながらに高校生の私は思った。そんな時「RUSH」で中上健次と出会った。村上龍が芥川賞を取った前期に芥川賞を取った作家、そんなイメージしか私にはなかった。中学生のころ、村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を読んで、そのクールなのにエネルギッシュな何とも言えない文体に魅せられた。でも、それはそれ以上にはならず、それ以下にもならなかった。3回目に読んだときあることに気づいてしまったからだと思う。自分の置く位置、座る場所、見る場所を変えると、不思議とそのエネルギーは消えてしまうのだ。私が初めて読んだ中上健次の芥川賞をとった小説、「岬」は中学生の私にとって意味不明だった。文章はきれいだけど、おっさん?、そんな空気感しか覚えなかった。「RUSH」で中上健次に一気に傾倒した。「RUSH」で闘争を知った。「灰色のコカ・コーラ」を可愛い自分のわが子のように大切にして読んでいたのを今でも覚えている。周囲の友人では満たせない、学校に行っても満たせない何かがそこにあった。

本題からずいぶん脱線している。お気づきだろうか?

先週、斎藤さんとお昼を食べているとき、ちょうど斜めに座っている私より少し年上かなと思われる(たぶん、5つぐらいかな、でももしかすると同じくらいかも)おっさんが二人でご飯を食べていて、その見た目とは裏腹に(ごめんね)、熱く音楽の話をしているのが耳に入ってきた、ずっとそんな話をしていた、よっぽど好きなんだろうね。その話題が自分の世代性とかぶっていた。彼らの話すミュージシャンの固有名詞をすべて知っていた。そんなに好きではないのに、そんな話題。クラプトンから始まって、ジミヘン、ジミーといえばペイジやろ、あぁ、そういうことかって思った。やっぱり、シド・ビシャスなんだよ、俺は。ジョニー・ロットンじゃダメなんだ。

ここまで書いて、今の時代にアイラーをアルバート・アイラーだと分かってくれる人はどれだけいるのだろうか。例えば、今の私の周囲にアルバート・アイラーの闘争が理解できる人はどれだけいるのだろうか。

三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊本部に乱入し、自衛隊員に武装決起を促し、割腹自殺をしたのは1970年(昭和45年)11月25日、私は8歳であった。浅間山荘事件がその1年ちょっと経った後。小学校で授業をやめて先生と同級生ともども1台のテレビの前でその行方を見ていた。三島由紀夫に関する書籍はその後大量に出版された。小学生から中学生にかけて私はわけのわからない闇を読み続けた。三島由紀夫が死んだ同じ日、アルバート・アイラーは人知れずニューヨークのハドソン河に死体となって浮いていた。そのことを中上健次のエッセイで初めて知った。エリック・ドルフィー、ジョン・コルトレーン、アルバート・アイラー、彼らはたぶん天才だ、と思う。何かを破壊しようとし、破壊しきれず散っていった。今聴くとアイラーは暗い。でも何とも言えない。アイラーの水死体は誰かわからず、死体安置所で引き取り手もなく1週間以上放置されていたという。

 

あれから、40年近い月日が流れ、私はここにいる。破壊せよ、と再びアイラーが耳元囁くのだ。今の私の仕事は破壊することだ。大きな壁は破壊しなければ突破できない。爆弾を腹に巻き付け私は今ここに立っている。

あの時、「夢」はあった。

破壊しても「夢」は壊れない。

「夢」を現実にするために破壊する。

破壊しなければ「夢」が生まれないからだ。

 

そのことを誰か、自分の周囲が感じることができるのだろうか。

ふと、思う。

鏡の向こうには自分しかいないのではないかと。

それが「夢」なんじゃないかと。

 

 

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