どうしても許せない女だ、通り過ぎていく車のヘッドライトの眩しい光を浴びて目を細めながら桜は思った。夜が進んでも昼間の凶暴な光が街に残した熱のせいで、桜の露出した腕を通り過ぎていく空気は、まだ生ぬるく感じられるままだ。湿り気を含んだ空気が肌の上を取り囲んでいた。まぁいいっか、接待終わって解放されたし、家に帰ってとっとと化粧を落としてお気に入りのDVDでも見るか、とは到底思えない心境だった。とにかく怒りが収まらないのだ。
 桜は中堅出版社が出版するBL(ボーイズラブ)系の月刊誌の編集長だ。桜が許せないと思っている女性は、桜が勤めている出版社が出版する「働く女性向け」美容月刊誌の編集長の椿だった。高校時代の同級生でもある椿は、桜よりずっと偏差値の高い有名大学を卒業し、その後就職した某大手出版社で有名なファッション系女性誌の編集長まで上り詰めたにも拘わらず、結婚を機にきっぱり退職し家庭に収まった。相手は著名ファッションデザイナーだった。その椿が子供を産み5年のブランクを経て復活した先が桜のいる出版社だったのだ。新たに出版する予定になったその女性誌の編集長として。
 桜は椿とは高校時代から殆んど口をきいたことがない。そもそも裕福で美人で頭もいい椿にとって、取り柄のない地味な桜など眼中になかったという方が正しいのかも知れない。椿はその頃自分のことを話すとき必ず「椿ね」と言いながら話していた。それでも許されるお姫さま、桜はそんな椿をその頃から嫌いだったのかも知れない。
 椿が桜の勤める出版社に出社した日、挨拶のために社長が椿を連れて桜の席までやってきた。「どうしてもって口説いたんだよ、彼の旦那様は俺の大学の後輩でね」そう社長が言った。「だって家庭を大事にしたいし、もう目立ちたくはないし、ここならねって思って」椿がそれに答えた時ようやく桜はそれが高校時代の同級生の椿であることに気づいた。「もしかして」桜が口を開くと同時に「あら、桜?」と椿が先に自分の名前を読んだ。「椿だよね?」私は驚きながら彼女の名前を口にした。それだけお互いに認識が薄くて興味がなかったのだ。あれからちょうど1年が経つ。最初の頃は社内のことをいろいろ教えて欲しいと言われて桜も親切に接していたが、桜と違って協調的で人間関係を作るのがうまく家庭的な匂いも醸し出す椿はあっという間に社内の男たちのマドンナ的な存在になってしまった。
 「ダメだ、そんな企画、BLは妄想女子の王道でいいんだよ、そんなリスク取れるかぁ、面倒くさい、何か男目線で暑苦しいんだよ、野村の企画はー」ある日、桜がいつものように部下に向かって怒鳴っている処にやってきた椿は頭の悪い子を諭すような言い方で「桜、ちゃんと読んだの?人が一生懸命書いたものをそんな風に机に放り投げて」と言われた。ごもっともな言い分だ、あんたは賢いし偉いよ、そう思いながら桜が無視していると、「桜、昔っから机の上汚いわよねー」と椿が追い打ちをかけてくる。椿の言葉に桜が少しむっとした瞬間だった。怒鳴られてた野村が「いいんっすよ、桜さんは、変態を突き詰める鬼才なんで。ストライクの汚い言い草や態度が桜さんにはよく似合うんですよ、スタッフに最悪の上司だと思われる天才ですから」と弁護にならない弁護をしてくれた。「お、野村ナイス」社内で一番地味だけど気になってしょうがないと野村が評する黒淵眼鏡のキリコがフォローした。そんなフォローで私が機嫌が良くなるわけはなく、ますます不機嫌になっていると、「愛があるのね、桜の部下。上司が上司なら部下も部下ね」と投げ捨てるように言い放って、それからBLの編集部には来なくなった。お姫様は、どうも桜の編集部ごとお気に召さなかったらしい。
 蒸せかえるような空気に包まれながら、青っぽい、いや、オレンジ色なのかも知れない、何色だと感じればいいのか分からないネオン街を桜はどこに向かうでもなく歩いていた。さっきまで自分が編集長を務めるBL誌のイケメン人気作家の接待を、社長、桜、桜の部下で作家担当の野村、椿の4人でしていた。桜はそのイケメン人気作家の新連載漫画の企画、椿はイケメン人気作家のインタビュー記事を取り付けるのが目的だった。男を手玉に取る技術は桜より椿の方が数枚上だった。結果、椿はイケメン人気作家のインタビュー記事の確約を取り付け、桜は新連載漫画の企画の確約を取り付けることができなかった。それだけならまだよかった。社長が2次会を用意しようと言い出してくれて、まだチャンスはあると思った時だった。「すみませんけど、わたし夫と子供を待たせているので、ぼちぼち帰りますね」とイケメン人気作家にニッコリ微笑みながら立ち上がった。「あー、そうですよね、ひっぱっちゃって、僕も帰ろう」その魔力に落ちたように接待相手が帰ると言い始めたのだ。野村が「面白い店あるんすよ、ちょっと変態っぽい感じのとこですけど、どうですか」と誘ったものの、まさに逆効果だったようで、人気イケメン作家は椿と共に帰ってしまった。「お前ら、編集者に向いてないんじゃないか」それが、その後社長が呟くように発した言葉だった。その言葉がまだ桜の胸に残っている。
 怒りに震えながらしっかりとした足取りで歩いているつもりだったが、少し酔っているせいか足元がふらついているようだ。桜さーん、待ってくださいよー、もう一軒行きましょうよー、後ろから男の大きな声がした。桜に追いついて横に並んだ野村は「椿さん、ほんとに家に帰ったと思います?怪しいっすよね、帰る方向が一緒だからってイケメン野郎とタクシー乗って」と話しかけてくる。「帰ったよ、椿は。そんな安い浮気しないよ、値踏みするんだよ、ちゃんと、そういう女なんだ」桜がそう言うと「そーっすよね、桜さんじゃあるまいし」と突っ込んでくる。野村は、本当にデリカシーのない最悪な部下だ、桜はそう思うと余計に腹が立ってきた。「酔ってます?」野村はしつこく桜の顔を覗き込んで揶揄するように言ってきた。「絶対、酔ってません」変な敬語を部下に使いながら桜は言った。強がってそう答える、傷つくことをいつも恐れて強がる、桜はそういう性格なのだ。「よかった、じゃぁ行きましょうよ、明日休みですもんね、これから、これから」そんな男のいい加減で緩い言葉に少し心が揺らぐ。酒は嫌いな方ではない、人は嫌いだけど、ネオンは好きだ。「うっぷん晴らしにホストでいいっすか?付き合いますよ」桜の心情の変化を見透かしたように野村が言った。野村の顔がネオンサインに照らされてキカイダーのように見える。桜はそのキカイダーみたいな男の顔を見ながら思った、いつもそうやって何かを求めながら男の誘いに乗る、誘惑には弱いが最後の勇気はでない、二次元世界の方が気楽でいい。そう思うと急に哀しくなってきた。「野村さぁ、あんたでいいよ、あんたがホストしなよ」桜はオレンジ色の光に埋もれていく自分を感じながら、やはり何かを期待して言った。

 どれくらい飲んだんだろう、気が付くと朝ちゃんと自宅マンションのベッドで寝ていた。化粧も落としているし、シャワーも浴びたようだ。何も起こっていない。私は何を期待していたんだ、そう思いながら手を伸ばして届くところにあるカーテンを少し引っ張ってみた。途端に頭の中に光が差し込んできた。朝陽が眩しかった。桜は透明感のある健康的な光が苦手だった。少し微睡んで意を決してやっとの思いで起き上がって、洗面所に向かおうと立ち上がった時、立ち眩みがした。二日酔いのせいだろうか、少し頭が痛かった。洗面所に立って正面の鏡の中の自分を見た。嫌な顔だ、好きになれないだらしない顔をした自分がそこにいる。水道の栓をひねると洗面台の底の丸い水槽の中を水がぐるぐる回り始める。手を伸ばして水を救って顔に叩きつける。手も顔も冷たくて気持ちいい。水が一番正直だ。光は時々嘘をつく。
 お気に入りのDVDを手にして立ち上がった時だった。不意に、あの女許せない、という卑屈さに取り囲まれた怒りの感情がこみ上げてくる。自分とは真逆の女、幸せな結婚をして、子供を産んで戻ってきた女、桜が必死で守っている仕事を軽くアルバイトでもするかのようにこなす女、人当たりがよくてバランスがよくて、家庭的なのに男に愛されるコツを知っている女。うちの雑誌の作家だよ、なのにあっという間にその作家の心をつかんでしまった。社長あの一言。あー、思い出しただけで腹が立ってきた、いかにも家庭中心です、って顔してる女のくせに外でも男に好かれるんだ、うっとおしい。カーテンの隙間から部屋に差し込んでいる光がTVのモニターに反射して、そこにDVDを持ったまま鬼の形相で立ち尽くす自分の姿が映し出されていた。こんな女、みんな嫌いだよね、だから友達もできないし、男もできない、消えてしまえばいいんだよ、あんたなんか、そう思いながら桜はそんな自分を本当は肯定したかったのだ。
 最初は、玄関のチャイムが鳴っているような気がした。そして、次に誰かがドアをノックしているような気がした。最後はスマホが振動しているのが目に映った。桜は億劫に思いながらもヘッドホンを外して立ち上がるとスマホを取り上げた。『玄関のドアを開けてくださいよ』Lineのメッセージは、部下の野村だった。また、玄関のチャイムが鳴った。覗き込むと玄関先に野村が立っていた。「何であんた私の家を知ってるの?教えたことないよね?」桜はドアから半分顔を出したまま、怪訝な顔で尋ねた。「昨日教えてくれたじゃないですか、今日ドライブに行く約束もしたのに。ちゃんと出てきてくださいよ」と言った。「わたしが?噓でしょ、ドライブなんて嫌いなのに」桜は玄関の外に出ると後ろ手でドアを押さえるような格好で立った。「何にも覚えていないんですか、やだなー、酔っぱらってたからってひどいですよ」野村の声が漠然と耳に入ってくる。部下の捲し立てる声をはるか遠くの異次元の世界で聞いている自分がいる。「桜さんの方が言い出したんですよ、だから来たのに」どうも、冷静に整理すると、桜が酔っぱらってドライブに行く約束したのは、本当のようだ。「わかった、悪かった、ごめん。でも、やっぱり嫌よ、あんたとドライブなんて」桜がはっきりとした声でそういうと彼は少し悲しそうな顔をした。「ごめん、本当にごめん」野村の顔を見てバツが悪くなって、桜はうつむいてしまった。「駄目ですよ、許しません、昨日は僕も酔っぱらってしまってホスト失格でしたから。今日はちゃんとホストやります。昨日の失態のお詫びさせてください」野村は桜の手を握っていた。「行きましょうよ」そう言った彼の強い意志のような言葉に気押されて桜は頷くしかなかった。
 何でそんな約束したんだろう、ぼんやりと考えながら軽く化粧をした。徹夜続きでしょっちゅうスッピンを見せている部下だ、今日も既に見せている、気やすい相手だ。不意に学生時代に同棲していた男に「化粧なんか適当にしろよ」と出かける準備をするたびに言われていたのを思い出した。その男は私を待つのが億劫だったのだ、そのレベルでしか私は愛されていなかったのだ、と桜は思った。玄関の外で待っている野村は、デリカシーはないけどそんなことを言う男ではない。「桜さーん、ゆっくりしてくださいねー、僕、マンションの下で待ってますから」野村の声が聞こえた。不意に、少し時間を稼いで待たせてみようか、そんな悪戯心が起こったけどやめた。いそいそと準備している、そう思われる方が嫌だった。
 野村の声が聞こえた後、すぐに桜は彼の後を追うように表に出た。透明色の光が私を捕まえて食いつぶそうとしている、桜はそう感じた。
 え、桜が眩しさで瞑った瞼を次に開けた時、目を疑う信じられない光景が桜の目に映る野村の周辺を取り囲んでいた。野村はそこにただ単に突っ立って桜を待っているだけではなかった。白いロータス・エヴォーラと共に立っていたのだ。「わぉ、すごい、やるじゃん、野村、あんた白馬の王子様に見えるよ、そーいうことだったんだねー、いくいく」桜はあっという間に有頂天になってしまった。彼の乗ってきた車のフォルムは美しかった。そのフォルムに嫌だと思っていた太陽の光が跳ね返っているのを心地よく感じている自分がいた。自然に笑顔になって白い歯がこぼれた。「やぁ、良かったです、気に入って貰えたみたいで」彼の笑顔と共に車は発進した。

 野村は都会から離れて田舎の田んぼ道を抜けると、山の中に車を走らせていった。田んぼの匂いも山の匂いもすべて嫌いだ。動的な匂いのしない四角い箱の中で生きていたい。その四角い箱から新しいリズムが生まれて桜はようやく踊りだせる。そんなことを誰も気付いてくれない、そう悲観しながら桜は生きている。「私、単なるオタクだよね、やっぱ編集長とか向いてないのかなぁ?」桜は山道の川に跳ね返る光を眩しそうに見つめながら言った。「なんだ、まだ気にしてるんすか、あんなこと」彼は曲がりくねったヘアピンカーブの急ハンドルを楽しむように笑った。「のむらー、そもそもおまえの担当だろ、あの作家。おまえも一緒に社長に編集者に向いてないって言われたんだよ、悔しくないの?」桜は野村の顔をちらりとみた。野村はバックミラーを気にするふりをしながら「悔しくなんかないっすよ、あんなありきたりの王道BL」と言った。後に誰も走っていないのは知っていた。バックミラーなんか気にする必要はなかった。あ、私は思った。目の前の男を値踏みしている、椿がやっているのと一緒だ。桜は不快になった。「そんなことより、桜さん、酔っぱらうと人格変わりますね、妙に気づかいができて、笑顔が素敵で、ちょっと乙女チックに好奇心旺盛になって、いつもの桜さんと昨日の桜さん違う気がしたなぁ」彼は運転をしながらまっすぐ正面を見たまま呟くように言った。勝手に話題変えて胡麻化して、そう思ったが、桜は答えることも応じることもできなかった。何も覚えていないからだ。一瞬、昨日のことを思い出そうと思って努力していると、野村が急ブレーキを踏んだみたいで、車ががくんと揺れて、カーブを抜けた後に少し幅広くなっている路肩に乗り付けたようだった。らしくない不思議な乱暴さに桜が驚いた顔で野村の方を見ると、着いた、野村にしては妙に歯切れの悪い、でもとても短いけど何だか重要そうな単語を呟きながら下を向いていた。顔を見せたくないんだろうか、と桜は思った。
 ガードレールの向こう側には、静かに流れる涼しげな川と、川の向こうには樹や硬い緑色の葉っぱの香りがする森と、何よりもキラキラしている透明色の光がその風景全体に降り注いでいるのが白いロータス・エヴォーラが止まっている路肩から下方に見渡せた。時を止めたまま水面を滑り出した小船のようなため息をついてから、野村は顔を上げた。着きましたよ、お姫さま、顔を上げた彼の顔は、いつも桜に向かって微笑んでいる顔だった。野村は桜と目が合うと、ガードレールの向こう、静かに流れる川から少し離れた場所を指さした。あっ、桜はこの日2度目の驚いた声を上げた。ちょうど対岸の木々がいい感じに創り出す木陰にこんもりと盛り上がった可愛らしい桜模様の布切れで覆われた隆起があった。あれ、なに、桜の声が発せられるかどうかという間合いで、あれ、桜さんのお昼寝用のベッドです、とくそ真面目な顔で野村は言った。あはは、あんたあれから寝ずにこんなもん作ってたの、桜は気が抜けたような笑い声を出した。
 嬉しくなった桜は、ガードレールを跨いで、少し急な斜面を勢いよく駆け下りて行った。危ないっすっよ、そんなに急いだら、桜の後に付いて降りてくる野村の声を心地よく聞いていた。川岸を降りきって、ベッドの傍に立つと、思いっきり、野村の作ったベッドに飛び乗って、その感触を確かめながら、あー、気持ちいい!ありがとう!ありがとう!とこんな素直な声を出すのは何年ぶりだろうと思いながら何度も叫んだ。
 「桜さん、どうせ寝ちゃいそうだから、寝ちゃう前にお願い聞いてもらえますか?」野村が妙に真面目な顔で言う。「昨日、酔っぱらって覚えてないかも知れないんすけど、あのー、前に怒鳴ってた没企画、いいんじゃないって急に言ってくれて」野村の目は真剣だった。いつもの暑苦しいやつだ。「ふうん、私そんなこと言ったの?」背中のベッドの手作り感が背中に伝わってくる。とても優しい感触だ。
 「俺酔いつぶれそうで、カウンターに突っ伏してたら、トイレから戻ってきた桜さんが人が変ったように優しくなってて、あの企画悪くないよって」野村の息遣いが少し近くに感じる。近すぎるのは自分には酷だ。背中を藁の感触に優しく撫でられながら、前からどうしようもない感情が押し迫ってくるようだ。
 「で?他には?」桜はこのくすぐったい気持ちをどう転換しようか思い悩みながら、でもしっかりした気持ちを失わないように気をつけて聞いた。「うーん、そう、自分の車の乗ってる車の話しをしたら、明日も素敵なホストお願いねって、僕に住所書いた紙きれ渡して。車の車種には興味ないけど、ドライブは好きだからって。あの時の桜さん、妖艶だったなぁ。ドキドキした。桜さん、こんな色っぽい顔するんだって」
 嘘つけ、私がそんなこと言うか、私と全く逆じゃん、と桜は思った。野村は酔っていたんだろう、自分の都合のいいように私のイメージが肥大化している。「あんたさぁ、どっか死んだ会長に似てるよね、前から思ってたんだけど、白馬の王子様みたいな庶民的ではない車に乗ってるしさ」私は、目の前の野村自体を肥大化させて想像することでそのバランスを取ろうとした。「BLごっこっすか、さすが桜さん、いいっすね、そうなんすよ、僕の母親、会長の妾の方でして、社長とは腹違いの兄弟って奴ですかね」野村は腹を触りながら大げさなポーズをした。
 「やっぱり、で、あんた、年いくつだっけ?」桜は少し優勢に立ったような気がして聞いた。「今年30っす」野村は落ちなくそのまま正直に答えた。「落ちのない白馬のガキね、白馬のガキみたいな、素敵なBLできるかもね、今日の野村と私みたいな」桜は笑った。「なんなんですか、王道じゃないですか、そんなんじゃなくて、くそっ」野村は不服そうな声を出した。野村の腹は読めている。
 「要するに自分の企画とかストーリーで作家使いたいんでしょ、目がギラギラしてるわ、死んだ会長にそっくり」そういった桜の顔をとても怖い顔で野村が睨んだ。えっ、まさかって桜は思った。えっ、て。「桜さん、会長と寝てないっすよね?」野村は、まだ怖い顔のまま桜の目をまっすぐに見ていた。
 「あほ」何とか強気でそう答えた言葉を最後に桜の意識は薄らいでいった。目を離さずにBLごっこを続けていた桜は疲れてきて、「眠くなってきちゃった、キスして。そしたら、あんたの企画通すよ」と言ったのを最後に本当に眠ってしまったようだ。桜は野村が、本当っすか、って声を上げると思っていた。でも、違った。桜は眠気のために急に意識を失った。野村は桜にキスしていた。野村がキスするのが早かったのか、桜が眠ってしまうのが早かったのか分からなかった。桜は眠っていたと思っていたし、野村は起きている桜にキスをしていると思っていた。野村の目に映る桜はうっすら目が開いていた。

 楓じゃないか、繁華街を歩いているとしっかりとネクタイを締めて眼鏡をかけたサラリーマン風の男に呼び止められる。背広の襟の金色の社章が目に入る。「人違いです」桜はそう言って逃げようとした。「何をふざけたことを言っている、楓」男は強引に私の腕をつかんだ。「離してください、あなたは誰?」桜は問い返した。「おまえ、夫の顔を見て何を言っている?子供は?また、実家に預けているのか?こんなところで何をしている?男か?」私の腕を掴んでいる男の力が強くなり、男は矢継ぎ早にそう言って私を睨みつけた。夫?子供?私が?何?私はわけが分からなくなって混乱した。男は私の腕を話そうとせず、強引に引っ張ろうとする。「やめてください」桜は叫んだ。
 私の分岐点はどこかにあったのだろうか?もしあったとすればどこだったんだろう、恋をしなかったわけではない、全く友達がいなかったわけではない、気が付くと、孤高で今の場所にいたのだ、それでも、私はその場所が心地よかったのだ、少なくとも椿が戻ってくる1年前までは・・・桜は無意識の中で時空間の分岐を探してさまよっていた。ぐねぐねと曲がった道がある。ぬねっとしたぬかるんだ道。ピカピカに輝いているけど、すぐに滑って転びそうな硬いつるつるの道、腫れて乾燥しきって歩きやすいけどしょっちゅう埃が舞い上がってくしゃみと咳に悩まされる道。歩きやすい道などどこにもない。椿の歩いてきた道はどんな道だったんだろう。椿が歩きそうな歩きやすそうな道なんか少なくとも今の私には想像できない、歩きやすそうに見えるけど、きっと椿も歩きにくい道を歩いているんだ、桜はその夢の続きが道の選択に変化しているのを知っていた。少なくとも夢の中では。
 桜さん、起きてくださいよ、野村に肩を揺すられて私は目を覚ました。それにしても、妙にリアルな夢だった。まだ、自分の夫だと名乗った夢の中の男の声が耳の奥に張り付いている気がした。少し寒気がして身震いした。大丈夫ですか、野村は心配そうに私の顔を覗き込んでいた。「あのさぁ、嫌な夢だったんだ、私夢の中では結婚しててね、子供もいるみたいで、繁華街で夫に詰め寄られて何してるんだって、怖いの、その夫が、そんな感じの・・・あーもう、なんでもっと幸せな夢じゃないのよ、私、本当に一生結婚できないわ、絶対」桜はそう言うと野村に笑いかけた。正確に言うと、笑いかけたのではなく、ふと、その時なぜこんなことを野村に言ってしまったのだろうと思いながら、笑ってごまかしたのだ。
 少し陽が落ちかけていて、そのせいか、野村の顔が曇って見えた。「桜さん、そもそも、年いくつでしたっけ?さっき僕も聞かれたし、30にもなってガキBLみたいな」野村は普通に考えると聞きにくいことを平気で聞いてくる。しかも上司に。「今年40だよ、確認するなよ、知ってるんだろ?悪かったわね」桜は年を聞かれてもそんなに悪い気がしていない自分を発見した。そういうところが駄目なのかも知れない。「私、そこの川でちょっと顔洗ってくるわ」桜の言葉は明らかに照れ隠しだった。その言葉を聞いて、「化粧落ちちゃいますよ」と野村が笑う。「いいのよ、もうとっくに落ちてるわ、ちょっと待ってってね」桜は勢いよく立ち上がると、小走りに川べりの方を向いて歩き始めた。足の裏に小石のくすぐったい感じが伝わってくる。川の表面が沈みかかった太陽に照らされて魚の鱗みたいにキラキラと銀色に輝いている。向こうの川岸は森のようでたくさんの木々に覆われている。光の渦が陽炎のように川の表面から立ち上っている。手で掬った川の水はひんやりとして心地よかった。桜は、バシャバシャと手で掬った水を顔にたたきつけた。なんだ、冷やっこい、水道の水なんかより、ずっといいかも、そう桜が思った時だった。「桜さん、俺と結婚しましょーよ」大きな声で野村が叫んでいた。馬鹿、ふざけておばさんを揶揄って。桜は気が抜けたように笑った。普段なら腹が立つのに今日は腹が立たなかった。それより、あの夢の男の顔を一刻でもはやく消したかった。
 何度かバシャバシャやって、顔を上げた時、対岸の木陰に女の人が立っているのが見えた。なんだろう、あんなところで、桜は不思議に思って目を凝らした。こんな山の中に不似合いなスイートな恰好をしていた。へ?顔が自分の顔にそっくりだ。そう気が付いたとたん、桜の耳に妖精のような声が飛び込んできた。「楓です」その声が言った。「もう生きていけそうにないからお別れに来たの?わからない?」確かに顔の見た目は自分にそっくりだけど、根本的に何かが違う。なんだろう?自分の中にあった椿のような感じ、それが目の前で一気に噴き出してる感じがするのだ。「楓はね、あなたの心の中の影としてずっと生きてきたの。昨日、野村さんと話したのは私。あなたの無意識の世界でずっと生き続けてきたの」自分にそっくりなその女が言った。すごく恥じらい深くて女性的で優しい、自分に何を加えればこうなるのか、自分から何を引けばこうなるのか、とうてい桜には想像できなかった。ただ、楓と呼ばれた女は今にも消えそうにゆらゆら揺れていた。失われた自分の記憶の時間、そこでこの女は生きていた、楓は私の影だ、そう気が付くのに時間はかからなかった。
 「気が付いたのね。あなたの人生の分岐点、そこで別の人生を送ったのが私なの。あなたがあきらめた椿さんのようなお姫様を目指したわ。でも、無理。根本的な違いが二つあるの。一つ目は、徹底的に論理的になれて欲望を押さえられるか、ルーズにならずに生きられるか、これって生まれつきに近いのよね、分岐点からは無理でしょ。もう一つは、自己犠牲を払って家族を救えるかってこと。それって大変なのよ、私にもあなたにも無理。でもね、私はあなたと違って男にもてるのよ、少なくとも表面上は可愛い女を演じられるからね」重要なことが何もないただ単に言葉の多い妖精だと桜は思った。
 「あのさー、あんたは私をずっと見てたの?」桜が心の中で発した言葉だった。「そうね、人は影を見ないけど影は人を見てるのよ」楓と名乗った女が言った。うるさいっ、桜はそう思った。そう思うと同時に森の奥から飛びだした不思議な塵の塊みたいなものが川の水面でもわっとソフトクリームの反対の形で盛り上がったかと思うとキラキラした透明色の光をまき散らしながら、表現できないこの世のものとは思えない分散した形を作りながら舞い上がるように消えていった。
 ぐいっと、桜の中に何かが入ってきたような確かな感触があった。何かを食べたのとは違う食感が、生まれてこの方、経験したことがないような食感が桜の中に伝わった。私は何を食べたんだろうと迷うことはもう桜にはなかった。
 「さっきのプロポーズだけどさー、受けることにしたわ、車の趣味合いそうだし」そう言うと自分から野村の傍によってみた。触れない程度に。野村がどぎまぎしているのが手に取るように分かって、それが心地よかった。「椿の気持ちが少しわかった気がするわ。キー貸して。帰りは私が運転する」野村は車のキーを桜に渡そうとしながら、桜の肩を抱いてキスしようとした。桜は口元に人差し指を1本立てて、そのキスを制止した。「私、我儘だし、がんがんお金使っちゃうけどそれでもいいよね」桜は魔女のように笑った。

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